京都御所は建春門。その、建春門外にあったのが「京都学習院」ですね。
ちゃんと案内板もありました。「学習院発祥の地」。
安永八年(1779)閑院宮家出身の光格天皇は、公家の教育振興に取り組みました、と説明されています。つまり、光格天皇が学習院設立を計画し、仁孝、孝明と三代に渡った後、弘化四年(1847)にこの地に開講したわけです。「公家や御所勤めの役人、その子弟に漢字と和学を教えることとし、嘉永二年(1849)孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜され校名が定まりました」と説明されています。
説明版を読む限りでは公家の学校、読み書きを教えるVIPで雅な教育機関というイメージです。しかし、時は幕末、京都学習院に参加した面面をピックアップしてみるに、決してそのような安穏とした「学校」では無かったであろう景色が浮き彫りになってくるように思えます。
ざっと列挙しても・・、吉田松陰・高杉晋作・毛利敬親・桂小五郎・久坂玄瑞・赤禰武人・佐久間象山・平野國臣・甘粕継成・有馬新七・吉村寅太郎・池内蔵太・宮部鼎蔵・梅田雲浜・周布政之助・田中新兵衛・江藤新平・由利公正・横井小楠・鍋島直正・澤宣嘉・武市半平太・田中光顕・中岡慎太郎・有栖川熾仁・姉小路公知・岩倉具視・三条実美・朝彦親王・中御門経之・・・。
さあ、幕末妄想ワールドへ突入です。
恐らくは、光格王朝が学習院を計画したのは国の構造改革を計ったものではないのかと思います。政治改革の為に公家子弟と、そして各藩下士に対して思想教育を行っていた、と。つまりは元々は公武合体の推進にあったものと思われますが、ところが文久二年頃から倒幕運動が出てくるようになると、徐々に公家と志士たちの倒幕を謀る場に変化していったのではないか、と考えられるのです・・。これはつまるところ、学習院を実質的に管理していたのが尊攘派公家である三条や、姉小路らだと言えるのではないでしょうか。しかし、文久三年(1863)八一八の政変にて、尊攘派は朝廷から追放され三条ら「七卿」は都落ち、学習院にも長州藩士ら尊攘派志士たちの出入りが禁止されました。
これにより、元治元年(1864)以後の学習院は、元々の公家の古典教育機関に戻ったと思われますが、私の興味はここで尽きません。全ての事象には、面と裏がある如く、幕末にもそれは色濃くあった、というのが私の認識です。
安政の大獄で処刑された吉田松陰ですが、刑死を前にして獄中から、門人の入江九一に対し、「京都学習院を四民平等の学校にせよ」と指示していたといいます。この、「安政の大獄」が幕末の大きなキーのひとつだと私は考えています。烈公、春嶽、慶喜、青蓮院宮・・・、幕末のビッグネームが皆揃って蟄居・謹慎します。果たして、皆同じ時期に、それぞれ「引きこもって」何をしていたのでしょうか・・。
そして龍馬ファンの私として最も興味深いのは、安政5年(1858)~文久元年(1861)の間、龍馬の記録がありません。文久元年の九月に、土佐勤王党に加盟する所から再び記録が残りますが、この間、龍馬はいったいどこで何を「教育」されていたのでしょうか。
青蓮院門跡のライトアップでも眺めながら、ゆっくりと幕末を思想してみましょうか