文久二年(1862)初夏、薩摩の定宿、伏見寺田屋には薩摩の尊皇派の激徒達が集結していました。京都所司代を血祭りにあげ、その首を持って久光に奉じ無理くりにでも勤王諸侯、有志を蜂起せしめ、一気に政権を朝廷に戻さんとする暴発計画です。
しかし、この時期にはまだ「討幕」など現実的に考える諸侯はいなかったでしょう。島津久光とて、この時期は公武合体路線です。「暴発を止めろ」と久光は命令を下します。大久保一蔵らが激徒を何度か説得するも、失敗。首領の有馬新七らは聞く耳を持ちません。決行前夜の夜、最後の説得に向かった奈良原喜八郎は有馬の親友でもあります。寺田屋に着き、有馬らを説得するも埒が明かず、上意討ちの乱闘になりました。
道島五郎兵衛が抜き打ちに太刀を一閃、田中謙助の眉間を斬ると、田中は眼球が飛び出したままあおむけに倒れた、と伝わります・・。これを機に激闘が始まります。首領の有馬新七、刀が折れ手にはツカだけが残ります。刀を投げ捨てた有馬は、素早く相手の道島の手元に飛び込み力任せに道島を壁に押さえつけました。
「橋口、橋口、橋口」
と暴発組の同志に、
「おいごと刺せ、おいごと刺せ」
押さえつけている道島も、今は討ち手とは言え親友であって同志です。
「心得もした」
橋口吉之丞、二十歳、刀をきらめかせ「有馬どん、道島どん、ご無礼」
有馬の背を突き通し、そのまま道島の胸も突き抜けずぶりと壁に着き通しました。
薩摩の悲惨な内ゲバ。新撰組でも袂を分かった御陵衛士との内ゲバがありましたが、なんとも凄惨な事件です・・。
そんな「寺田屋事件」で有馬新七が刺された壁が「この壁です」。と寺田屋には展示されておりますが、まあ、いいんです。幕末ファンがそうした文久の事件に思いを馳せ、リアルな気分に少しでもなれるのであれば、よろしいのではないでしょうか・・。
前置きが長くなってしまいましたが、その「寺田屋事件」で亡くなった志士たちのお墓がある、「大黒寺」にむかいました。
こちらは幕末に、西郷隆盛や大久保利通らが国事を論じた部屋があるなど、通称「薩摩寺」とよばれているそうです。丸に十の字の提灯がでん、と掛かっていました。
そして、奥の墓地にある「伏見寺田屋殉難九烈士之墓」。
物語ではお登勢が言います「あとで多勢薩摩の方がみえて、このさきの大黒寺に埋めました」
「おいごと刺せ」と、同志と共に、同志に壁ごと刺させた有馬新七どんの墓
当然ながら、皆同じく「文久二年」が刻まれていました
合掌ー。