上志と
下士の中間にあたる「白札」と呼ばれる身分で「南海の
黒龍」とも呼ばれていたという
武市半平太。
土佐勤王党を組織しその
指導力を発揮、一藩勤王を目指す。
吉田東洋暗殺を決行させたり、京都では
岡田以蔵を使って
天誅事件を起こさせたりした。この
岡田以蔵との関係は物語やドラマに描かれる事が多い。
文久3年に京都
留守居役となるが、
山内容堂の
尊攘派弾圧が始まり「八・一・八の政変」後投獄されてしまう。
そして慶応元年(1865)、閏5月に
切腹を命じられる。三文字割腹の方というとてつもない
切腹をはたしたことが伝説となっている。この頃、龍馬が
亀山社中を設立した頃である。