ここに久邇宮朝彦親王の墓があり、訪れました
合掌ー。
厳重に閉ざされた敷地の向こうに、土山のような盛り上がりが見えます。あちらが朝彦親王のお墓のようです。
朝彦親王は文政七年(1824)のお生まれのようですので、龍馬より十ほど上になります。幼名は熊千代、九歳で本能寺に学び、天保八年に十四歳にて親王宣下。龍馬が二、三歳の時ですね。
伏見宮第四皇子の朝彦親王は二十九歳にて粟田口青蓮院の門跡となります。青蓮院粟田宮とも呼ばれたそうですが、孝明天皇の護持僧となって諸事相談を受け朝政にも関与する身でありました。
私が最も注目する安政年間、安政五年(1858)には将軍継嗣として一橋慶喜推し。戊午の密勅に関与し安政の大獄で慎(つつしみ)を命ぜられます。安政六年(1859)2月から、9月には更にこれに重ねて隠居、謹慎、永蟄居、12月には青蓮院を追われ相国寺の奥に幽閉されていたそうです・・。
これが文久二年(1862)4月になりますと、青蓮院に復帰します。
ちなみに、1860年~1862年までの19カ月間は慶喜公の蟄居期間とまったく被っているんですね。
さらなる「因みに」、我らが坂本龍馬、1859年~1861年までの約二年間、25~27歳時の動静がまったく記録が無いのです・・・。龍馬は安政の大獄の網には引っ掛かっていないはずですが、これまたまったく同時期になります。
例の有名なエピソード、安政五年11月に水戸藩士・住谷寅之助が龍馬と面会し、住谷は龍馬に失望して帰ったとされる話、そこから龍馬の動静の記録が途切れているのです。
文久元年に龍馬が土佐勤王党に加盟してから再び記録が出て来るのですが、その間どこで何をしていたかが全く不明です・・。龍馬が土佐勤王党に加盟して約半年後くらいですね、文久二年に朝彦親王は青蓮院に復帰しています。
安政五年に安政の大獄が始まって以来、幕末ビッグネームの面々が皆、足並みを揃えて蟄居・謹慎・隠居に入るのです。
烈公、慶喜、春嶽、青蓮院。「下々」の方では吉田松陰が処刑されましたね・・。
朝彦親王は公武合体派の領袖として「魔王」とあだ名されていたそうですが、この安政の大獄におけるVIP達の蟄居謹慎期間、龍馬の動静不明期間を解明したならば、巷間伝わる幕末史は大きく変わることになりましょう。
無論、我らが「坂本龍馬」も大きく変容された在り様に変化することになるかも知れません・・。
さて、朝彦親王。
徳田武著「朝彦親王伝」によると、奈良奉行、川路聖謨が「寧府記事」に当時朝彦親王から伺った話として次のように書き残しています。
わが実家は吉野の皇居の血筋なる故か、ことに盛にして、当時は禁裏も後醍醐帝の御血筋、近衛も鷹司も皆、わが実家のもの共が継ぎたり。不思議なることよと御意也。
・・・・・。
これは弘化四年(1847)十月、当時24歳だった朝彦親王が語った話、だというのです・・・。南北朝合一以来この時までの天皇は、全て北朝伏見宮男子孫であるというのが通説ではありませんか・・・?「後醍醐帝の御血筋」「吉野の皇居」とは、南朝皇統のことですよね・・・・。
伏見宮王子の朝彦親王が、いわゆる通説とは正反対の事を言うというのは、一体どういうことでしょうか・・・。更にこれについて、巷間の史家がまったく触れないというのも・・実に不思議です・・・。
さあ・・、そろそろ危なくなって参りましたので、このあたりで・・。
@京都2021