鯖江藩主間部詮勝。大老、井伊直弼「井伊の赤鬼」そして「間部の青鬼」として「安政の大獄」で尊皇攘夷派を弾圧した老中として知られます。
我々、幕末ファンに有名なのが、安政の大獄で捕えられた吉田松陰が、間部の暗殺を企てていることを自ら告白、死罪となってしまった話です。
安政五年に京都に入った詮勝は、勅許を受けずに調印してしまった日米修好通商条約の対応に当たる一方で、一橋派や尊皇攘夷派の志士たちを次々に弾圧したと言われています。
安政年間は、幕末ファンの私が最も注目する時期のひとつであり、維新への着陸に向けてどんな準備が行われていたのか、といった点で極めて重要な時期なのではないかと思っています。上記、「一橋派や尊皇攘夷志士たち」とひとくくりになっている点も着目したい点ですね。巷間、常識とされているのは維新を成し遂げたのは薩長雄藩、そして江戸徳川幕府の最期を任じ、文字通り幕を閉じたのが一橋・慶喜公です。安政大獄でひとくくりになった両者です。
安政の大獄では、幕末のビッグネーム、キーパーソン、VIPから下級武士に至るまでが次々に弾圧され、主たるものは一様に蟄居謹慎となります。蟄居や謹慎で、外に出ちゃいけない、ことは逆に言えば人目に触れないで済む、ことでもあります。「赤鬼」井伊直弼も世に出て大老になるまでは、彦根の「埋木舎」に籠っていた訳です。世間的な「目には触れずに」。
間部詮勝は安政六年三月までここに滞在したそうです。
その後、江戸に戻った詮勝は井伊直弼と対立するようになり老中を罷免されました。
梅田雲浜ら志士を次々に逮捕したという、ここもまた「安政の大獄」のスポットであります。