幕末のビッグネームのひとり、井伊直弼。井伊直弼が語られる場合、「安政の大獄」における大悪人、として終了してしまう気がしますが、果たしてそうなのでしょうか
文化十二年(1815)、彦根城二の丸で生まれたという井伊直弼は養子の口も無く、十七歳から三十二歳までの十五年間もの間、部屋住みとしてこの屋敷に暮らしていたといいます
その自らの在り様を埋もれ木にたとえ付けたという「埋木舎」。当時の三十二歳と言ったら、現代の感覚ではどうでしょう、五十や六十といった感覚でしょうか
上一枚目の写真の、左側がお城ですから、お堀で隔てれた「城外」の屋敷に起居していたということでしょう。そういった境遇に?「出世」には縁の無い現代の底辺で生きる労働者の私としては、なんとなく親近感を覚えてしまうような気がします・・。
今回滋賀住みになった私が、幕末マニアとして一番訪れてみたかった場所のひとつがここ、「埋木舎」でした。ゆっくり見学させていただきました
「埋木舎」では長野主膳と国学を学んだ、とか、茶道・和歌・鼓・禅・兵学等を学んでいたと言われます。そうした所から、「ちゃかぽん」などとあだ名されていたことも有名ですが、それも一種の印象操作のように思えるのは私だけでしょうか。
文化、文政、天保・・。私的には非常に興味深い時代なのですが、そこから嘉永の黒船に続き安政へ到ります。私が最も注目するのがこの「安政」なのですが、どうでしょう?安政に至る前段階の時代、天保二年(1831)から直弼は「ここに籠って」何をしていたのか?
そう考えると、まったく「ちゃかぽん」などというイメージには掛け離れた、何かシリアスな陰影が浮かび上がってくるような気がするのは私だけでしょうか
幕末のそうそうたるメンバーが安政期に蟄居・謹慎を喰らいます。それを「やっている側」が井伊直弼。その井伊直弼が前段階の時代にここに隠棲。さて、真相はいかに
ご周知、井伊直弼は「桜田門外の変」で暗殺されます。その桜田門外の変は安政の終わりに起こります。こう考えると、井伊直弼の天保の「埋木舎」から安政の「変」までで、ひとつの「完了」を迎えているような気がするのは私だけでしょうか。幕末のビッグネーム達を役者に例えるならば、井伊直弼はそのストーリーにおける「大役」を担っていた一人だと言えるのではないでしょうか
帰り際、管理人の方としばし雑談いたしました。「ここがかの大老、井伊直弼が部屋住み時代に不遇の時を長年過ごした場所なんですよ」。観光の年配の方が、うんうん頷きながら彦根観光を楽しまれていました。
そうです、世間というものは、それで丸く回っているのです。