二条城のすぐ前、東側にめちゃくちゃ立派なホテルがありますよね・・。「ホテル・ザ・ミツイ・キョウト」でしょうか・・。どうやら、セレヴィーな人が宿泊するホテル、佇まいもめっちゃカッキカキです・・!
こちらは幕末、福井藩邸があった場所のようで、その北側の一角に、「橋本左内寓居跡」碑がありました。
橋本左内は福井藩の医者の息子でしたでしょうか、非常に頭の良い、いわゆるエリートですね。
生まれは天保5年(1834)と言いますから、龍馬の一個上、まさしく同世代。嘉永5年には大坂に出て適塾に学びます。ちょうど龍馬が未だ「ハナタレ」?で、日根野道場で剣術修行をしていた頃でしょうか、秀才は蘭方医の緒方洪庵に学んでいたわけであります。安政になると江戸に遊学し、藤田東湖や梅田雲浜、西郷吉之助や横井小楠とも交流したそうです。やがて福井藩主の松平春嶽公に側近として登用され、将軍継嗣問題では春嶽を助け一橋慶喜擁立運動を展開しました。
しかし安政5年(1858)、井伊直弼のかの悪名高き「安政の大獄」により謹慎、翌安政6年には江戸伝馬町の牢獄に投獄され斬首。亨年26という、あまりにも短い秀才の生涯でありました・・・。
ちなみにこの安政期、幕末のVIPが揃って一斉に蟄居・謹慎に入ります。我らが坂本龍馬も、安政5年(1858)の11月に水戸藩士・住谷寅之助らと会ってから(龍馬に会ったが失望して帰ったとされる)、万延二年(文久元年1861)までの間、動静が知られておりません。
そしてこの間、もう一方のVIP達はポーハタン号で遣米使節団がアメリカに行っています。小栗上野介らですね。それの護衛艦として咸臨丸には勝海舟、福沢諭吉、通詞のジョン万次郎などが乗船、同じくアメリカに行きました。その年の3月には「桜田門外」、井伊直弼が暗殺されます。続いて夏には烈公、徳川斉昭が死去。後から歴史を俯瞰して見ている現代の私達には、あまりにも物事が整然と並んでいくように見えるのは気のせいでしょうか・・。
その後文久に入ると世情の針は一気に勤皇に振れて勢力を拡大、松平容保が京都守護職を受け、将軍家茂が入京、しかし八一八の政変で勤皇派が弾圧され始め、公武合体派が影響力を増す・・・。う~む・・、卓越した作家が書いたシナリオの中で、上へ下へと動かされる曲線の如く、めちゃくちゃ面白く(興味深く)思えてくるのは、私の妄想癖のせいでしょうか・・。
私の幕末探訪の旅は、まだまだ終わりそうにありません・・・。