御所です。時は「コロナ前」、この時はまさか数ヵ月後の世界がこうも変わってしまうとは、思いもしませんでした・・・。
今回訪れたのは、「皇女和宮生誕の地」。弘化三年(1846)潤五月十日、京都御所の東に隣接する橋本邸にて生まれました。十四年間、ここで養育されたと書かれています。
それを示す碑が建っていました。「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」碑
ご周知、和宮は有栖川宮熾仁親王との婚約を公武合体政策によって破棄され、徳川家に嫁ぎました。将軍家茂に嫁ぐ政略結婚、いわゆる降嫁ですね。これまたご周知、増上寺の徳川将軍家墓所には、将軍家茂と並び墓がありますが、安国殿には徳川家一門の御位牌に並んで、皇女和宮様等身大御像が祀られています。推算で143cm程と言われる身長ですが、像が等身大ならば、かなり小柄な方であったと思われます。
また、江戸への降嫁の際に通った中山道。滋賀県草津市の東海道と中山道の分岐点は今まさに私が暮らす地。そうそうたるビッグネームが皆、ここを通っていますが、最大のVIPとも言える皇女和宮も降嫁の際、草津宿本陣で昼食をとっていた記録が残っています。この輿入れの様子を表現して練り歩く「草津宿場祭り」も見てみたいものです。
そして皇女和宮と言えば、幕末ミステリーの最高峰のひとつでもある、というのは私の持論ですが、昭和三十三年から行われた将軍家墓の改装調査の際、和宮の左手首から先の骨が見つからないことや(肖像画や銅像にも描かれていない)、遺体の胸元に抱かれていた一枚のガラス版に微かに写っていた立烏帽子を付けた若い男性の写真(対策せずにいた為、翌日にはただのガラスとなり、像は消えてしまっていた・・!)は誰だったのか!?等、興味が尽きることがありません。
大変な幕末ビッグネームの一人、皇女和宮誕生の地を訪れて、一人感動している私がおりました・・。京都のど真ん中、周囲には誰もいません・・。笑