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【本圀寺】なぜ山科へ移転をしたのか?@龍馬をゆく2022

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大宮通り沿いの六条付近に不思議な石碑が建っています。

大本山本圀寺」。

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「お寺」?の石碑にも関わらず、周囲は住宅が立ち並んでおり、それらしい雰囲気はありません

なんだろう・・? 

 

 

調べてみると、なるほどどうして・・・非常に幕末と密接に関連している事に気が付き俄然興味が沸いてしまいました・・・!

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元々、六条堀川のこの地に「本圀寺」がありました。

現在は山科の地に移転しており、元々ここにあった事を示す石碑のようです。

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かつての敷地面積は広大であったようで、北は現在の五条通付近から南は七条通り、東は堀川通、西は大宮通りまで、相当広い面積を持っていたようです。

それが豊臣の頃、秀吉の命により南側の二町歩を西本願寺建立の為に割譲しました。

現在の聞法会館とそこにある広い駐車場、東急ホテルあたりがその広大な敷地の名残として解り易い感じで残っています。

猪熊通りから西にはたくさんの家屋が建っている為、むかし寺の敷地だった感はまるで無く、その一角に建つこの碑も不思議さを感じる一因です。

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気になった私は、早速移転先の山科の「本圀寺」へと訪れました。

地下鉄「御陵(みささぎ)駅」から丘陵を登り本圀寺の入り口に差しかかると、琵琶湖疏水が流れていました。水量が少なく感じるのは、昨今の琵琶湖の水位低下の為でしょうか・・?

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琵琶湖第一疏水を跨いで、正嫡橋を渡るとこれまた立派な石碑が建立されています。

ん・・・!「正嫡橋」・・・??嫡・・・・!!

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石碑の文字は、何と書いてあるのか読めません・・。

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本圀寺のはじまりは、日蓮上人が建長5年(1253)に鎌倉の松葉ヶ谷に開いた法華堂が始まりだと言われています。

弘長3年(1263)に大光山「本國土妙寺」が創建され、日蓮宗第四世・日静上人が貞和元年(1345)、光明天皇より寺地を賜わり六条堀川の広大な敷地に移転しました。

室町幕府の成立により、武家政権が鎌倉北条氏から京都の足利氏へ移った訳ですね。ちなみに、戦国期の?永禄11年(1568)には足利義昭が御座所として本圀寺に入っていたそうです。

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江戸期になると徳川家康が元和元年(1615)に本圀寺の寺領を安堵すると、「水戸黄門」様、水戸藩主・徳川光圀が生母の追善供養を行います。(光圀は京都へは行っていない)

その縁から、光圀の名前の文字から「圀」の字を与えて、「本國寺」から「本圀寺」に改称したとされています。

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ところが境内にあるこの梵鐘にまつわる説明書きとは異なっており、巷間伝わる上記伝とは逆の話になっています・・。

鐘の前に設置されていた説明書きによると、光圀の名前は「大光山」の「光」と、本圀寺の「圀」を本圀寺から水戸徳川家に賜り、それ以来光圀と名乗った、と書いてありました・・。

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いずれにせよ江戸時代より、本圀寺は水戸藩と非常に深い関係にあったようでして、ちょっと一筋縄ではいかない幕末にも深く関係しているように思えてしまうのでした・・・。

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渋沢栄一の「徳川慶喜公伝」によれば、文久3年3月の将軍家茂上洛当初から、六条堀川の本圀寺には水戸藩士が駐屯していたそうです。

 

そして本圀寺は、鳥取池田藩の屯所でもあったんですね・・。

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ここで一度幕末水戸家を整理してみますと・・・、

慶篤→水戸藩主(中納言

池田慶徳鳥取池田藩主

慶喜→15代、最後の将軍

昭訓→左衛門佐

昭武→民部大輔

烈公の子、慶徳は慶喜とは異母兄弟ですよね。なるほど、慶徳繋がりで本圀寺は鳥取池田藩の屯所でもあったんですね・・。

こうしてみると、本圀寺と水戸徳川家との関係が色濃く見えてきました・・。

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当時、昭武にいたっては数え11歳ですが、その伝によれば上洛当初は長者町の水戸藩邸に居たと。禁門の変の後、東山の長楽寺に移り、その後堀川六条の本圀寺に滞在したといいます。その時既に、水戸藩士達は本圀寺を屯所としていたそうです。

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将軍家茂入京時、本圀寺には水戸藩士が駐屯。将軍家茂、攘夷期限を5/10上奏。長州藩が下関で外国船を砲撃騎兵隊編成薩英戦争、そして8月には大和で吉村虎太郎ら天誅組が挙兵します。

その同日8月17日に起こったのが「本圀寺事件」です。

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本圀寺に宿泊していた鳥取藩の公武合体派の重臣、黒部権之助らが同藩の尊攘派・河田左久馬らによって襲撃され殺された事件です。

そうです、翌日の8月8日は「八一八の政変」。その前日尊攘派公武合体派を襲撃したんですね。翌日には政変が成り、公武合体派が政権を握り尊攘派の弾圧が始まるという、まさにそのタイミング。

昨日と今日で、世界というのはひるがえってしまうのですね・・・。

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また、本圀寺は熱烈なる法華経信者であった加藤清正が多大な寄進をしていたそうで、これによりかねてから境内には「清正堂」が祀られていました。

今でもそれを引き継いで、「清正宮」として祀られていました。

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昔の本圀寺の絵図を見ても、「清正堂」がしっかり描かれており、なるほど清正公は熱烈な法華経信者だったのですね・・。

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そしてこれも有名らしいのですが、境内にある水でお金を洗い清めるとご利益があるそうで、洗ったお金を入れるお守り袋のようなものも社務所で売っていました。

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さて、今回「本圀寺」を巡ってみましたがネット等を見ると、京都から山科に移転した理由として、末寺の離散や借財により六条堀川の土地を売って現地に移転したように書かれておりますが、書き込みによってはお坊さんのギャンブルによる借金が嵩んだ、なんてものまである始末で・・いかにも適当さを感じてしまうのですが・・その実際の理由とはなんだったのでしょうか・・。

一方で再び六条堀川へ戻す動きもあるとかで、それも気になるところですが、水戸徳川がガッチリ固めていた寺、という所にただならぬものを感じてしまう私がおりました・・・。

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ウィキペディアの本圀寺事件に関する記載で気になった一節が

文久3年(1863)には鳥取藩士による本圀寺事件が起き、また水戸藩徳川慶篤に率いられた尊攘派藩士が駐屯し、皇室徳川慶喜の警固に当たって本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。

という点です。

山科に移転したのは昭和40年代になってからだと思いますが、一説によると昭和天皇ご即位にまつわる祭事の年、昭和初頭、六条堀川にあった本圀寺の塔頭?か何かの一部の建物が取り壊されていたという話もあり、それが本当だとすればこれは何を意味するのでしょうか・・。

私の幕末の旅は、まだまだ終わりそうにはありません・・。

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@京都2022