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西郷隆盛「関原読軍記」@龍馬をゆく2019

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秋田在住時に出会った、「石田三成生存秋田隠棲説」関ヶ原で敗れた石田三成を佐竹氏が匿い、秋田で僧侶として隠棲していた、といったものでした。

秋田の地元史家の先生に質問してみたところ、一笑に付されたとんでも説なのですが、まあもの好きな私なりに秋田の寺を歩いてみたという事がありました。

そんなこともあって私が今回、戦国ど真ん中な滋賀県に移住して、「専門外」である戦国でまず興味をそそられたのが石田三成でした。とりあえず石田三成の出生地に行ってみよう、と長浜市石田町(町名にもなっているんですね・・)を訪れてみると・・・。

なんと!思いもよらず西郷隆盛の句碑!?を見つけてしまったのです!

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「関原読軍記」と刻まれたその句碑。戦国や石田三成のことはよく知らないのですが、こんなところで「西郷隆盛」と出会うとは!こっち(幕末)は専門です!笑

調べてみるとその句碑は、徳川でありながら石田三成を評していた水戸光圀公の論に同調する内容のようで、それを三成の出生の地に建立しているようなのです。

ざっくり言うと、

関ヶ原で東西は決戦

怒髪天をつき烈士(三成)は憤闘

敗戦は責められるべきではない(勝敗は時の運)

水戸藩の先哲(光圀公)が公正に論じている

と、いった意味でありましょう。

これは元禄期に光圀に関する逸話などをまとめた「桃源遺事」の中で、光圀が石田三成を憎んではいけないと論じていたもので、人は各々の主君に尽くすことを義というのであって、徳川の仇だと言って憎むのは誤りだ、と論じていたそうです。君臣共々、三成の如く心がけよ、と「江戸(徳川)時代」に論じているのは凄いとしか言いようがありません・・。徳川光圀公・・、やはりこの人はただ者ではありませんね・・・。「水戸黄門さま」などと後世では一種のエンターティメント化した姿なんて、人々を煙に巻きたい何らかの理由があるのだろうか・・?と思ってしまいます・・。

そしてその光圀公の論じたものをなぞり、こうした句を寄せる西郷隆盛。これまた、ただものではありませんね・・。

徳川光圀を考える時、必ず私の念頭にあるのが、水戸は「幕府の永世福将軍」ということです。つまり水戸自らは将軍に就く事はなく、もし水戸が幕府の悪政を認定した場合には新将軍を尾張紀州から選ぶ、という任を負い、両家に人物無き場合は広く天下の諸侯から選ぶという徳川の「秘密憲法」とも言いましょうか、元和元年(1615)に家康が定めた「公武法制応勅」です。つまるところ、水戸は「政権に就くことは無い」のです。権力者に在りながら、政権には就かない。一見、矛盾しているように思えますが、見方を変えれば「別の(重要な)仕事がある」とも言えるのではないでしょうか。つまりは水戸はそっちを担っている。

ん・・!?でも、「最後の将軍」慶喜は水戸じゃないの・・?そうですよね、で、その「将軍」が「大政奉還」にて政権返上させた、故に「最後の将軍」ですね。政権を担っている当事者には難しいので、「もうひとつの役割を担っていた」水戸が、政権を奉還させて終わらせたということでしょう。

「壬生義士伝」燃えよ剣」「竜馬がゆく」等で、熱く幕末にのめり込み始めた当初の私が捉えていた幕末の構図、徳川幕府×薩長雄藩。能力の無い幕府役人たちによって自ら崩れゆく徳川と、国を憂う草莽の志士、能力のある薩長雄藩との格闘によってなされた明治維新。そんなイメージが、もはや跡形も無く崩れ去ってしまった「私の幕末」は、まだまだ探訪が続きます。

 

 

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