2012年龍馬をゆく、以来、7年ぶりに湊川神社を再訪しました
ご周知、ここには水戸二代藩主・徳川光圀(水戸黄門)が楠木正成の顕彰碑を建立した場所であります
2012年の時は、神戸巡りで最も重要なポイントのひとつという思いと、初めて訪れた緊張感もあって、もうひとつじっくり見学出来なかった気がしますが、今回は近畿に居を構えたことで、心にも余裕がある気がします
光圀公と言えば「大日本史」の編纂。いわゆる「水戸学」というものが、幕末の志士の政治思想に大きな影響を与え、我々が知る幕末のヒーローたち、下級武士たちの精神的原動力になったものと推察されます
水戸学では、皇位の象徴である「三種の神器」の継承を研究し、その結論として南朝を正統と判断したのでしょう。光圀公は元禄五年(1692)、楠公戦死の地、湊川に楠公墓碑を建立します。「嗚呼忠臣楠子之墓」は、楠公を初めて公に顕彰したものでした
この、楠公顕彰の動きは、いわゆる西南雄藩にも広がり、先を争って楠公社創設に動きます。雄藩も、そして幕府も、こうした動きはつまるところ、王政復古が南朝革命であることに勘付いたからではないでしょうか。幕末になると、水戸の藩儒で烈公の師でもある会沢正志斎が、その著書「草堰和言」で国家功臣の祭祀の必要性を論じ、各藩における楠公祭祀が興ります。有名なのは嘉永三年(1850)、佐賀藩における「楠公義祭同盟」だと思いますが、その一方で文久三年(1863)の、京都平等院における足利将軍木像の首が斬らて三条河原に晒された事件など、まさにこの南朝復元活動における事件と言えるのではないでしょうか
我らが龍馬も、その有名な写真で誇らしげに「見せている」短刀、この短刀も楠木正成のものを模したものと言われ、有名です
ちなみに、光圀公は「水戸黄門」として諸国漫遊のイメージが強いですが、実際には遠出をして訪れたのは鎌倉だけだったそうです。つまり、ここ、湊川にも来ているように錯覚してしまいますが、墓碑を建立「させた」だけであって、ご本人が訪れた訳では無いのですね
墓所の門をくぐると、一種異様な空気感に包まれています
楠公墓碑。当たり前ですが、前回来た時となんら変化はありません
「史蹟 楠木正成墓碑」
非常に綺麗に整備されています。相変わらず、インスタ映え狙いの有名観光地とは違って、人っ子ひとりいませんね・・。
しかし・・・。私の幕末熱は一向に冷める気配がありません・・・。