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久保田城跡@秋田市2017

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司馬遼太郎先生の「街道をゆく」を歩く。私にとって最高に贅沢なひとときです。秋田県に移住した2017年、地元の史家の先生の講座があり、それに参加する折に久保田城を訪れました
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久保田城は秋田市の街の真ん中にあり、藩政時代の佐竹氏がここに築城し、城下町を形成していきます。以来それをもとに街が形成され現代に至っています
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江戸時代には約270余りの大名がいましたが、そのほとんどが戦国期の成りあがり。源頼朝以来の大名と言えば島津氏と佐竹氏で名門ですね。佐竹氏からすれば、徳川なんぞ「最近の」に過ぎない、という思いもあったのではないでしょうか
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豊臣政権時には、常陸の国(茨城県)54万石余までになったそうです。秀吉が死に、石田三成らが家康の天下を阻もうとします。この時の佐竹氏の当主は「ヨシノブ」。我々幕末ファンはヨシノブと言ったら「慶喜」ですが、戦国佐竹氏は「義宣」です。
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この頃、佐竹義宣水戸城にあって、石田三成に対し好意の中立を保ちます。司馬先生曰く「情勢によっては家康を討つつもりだったといっていい」。何度か触れましたが、この戦国時代に「三成をたすける!」と天下に言い放っていたといい、そんな佐竹氏は関ヶ原の戦後処理で家康に潰されていてもやむを得ない立場でした。
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しかし、家康は佐竹氏を潰すことはせず、減封(20万石)と国替えにとどめました。これにより佐竹氏は常陸国(茨城)から秋田へ移ることになります。当初秋田城に移るよう命じられたのに対し、僅か半年で内陸地に久保田城を築城し、左遷の身にも関わらず勝手に移転してしまうのです。この豪傑さは戦国武士のそれ、ということになりましょうか。
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司馬ファンの私にとって、否定的な意味で使われる「司馬史観」という言葉は好きではありません。司馬先生の「所感」として、佐竹氏を転封にとどめた理由として以下のように記されています。
「このことは、ただひたすらに家康の名家好みのおかげといっていい」
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余談になりますが、秋田といえば「秋田美人」。一説ではあまり日光が当たらない日本海側特有の気候が色白の美人をつくってきた、とも言われますが、ちょうどこの久保田城を見学していた折、櫓を見学していたシニア女性の御一行がおりました。曰く、「秋田美人でいうけどさ、佐竹氏が常陸の国からべっぴんさんをたくさん連れて来たっていうじゃない?ってことはさ、私たち茨城県民が秋田美人の「もと」だっぺ!」
賑やかに談笑しながら見学する御一行、茨城県からの観光だったみたいですね(笑)
そういう意味では私も、茨城県から秋田県に移住してきた者として、佐竹氏にはシンパシーを感じるのであります(笑)



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