安政七年三月三日。水戸浪士たちは
品川宿を出発し、
愛宕神社に集結。
桜田門へ向かう。登城してゆく
大名行列。それを見物する町民たち。
彦根藩邸上屋敷(上写真)の門が開き、
大老・井伊直弼を乗せた籠が門を出た。
彦根藩邸から
桜田門までは僅か数十メートル。現在でも藩邸を出たあたりから既に
桜田門が見える。しかし、この日は季節外れの雪であり、普段に比べるとやや見通しも悪かったかも知れない。
内堀通り沿いを進む直弼の行列。この日は雪の為護衛の侍たちは刀の柄鞘に袋をかけていたという。
いよいよ籠が
桜田門に差しかからんとするその時、駕籠訴を装った水戸浪士が行列に近づいた。パン!パン!とピストルが発射されたのを合図に一斉に抜刀襲撃が開始される。
直弼は発砲された銃弾によって腿から腰にかけて重傷を負い、これで既に動けなくなったと言われている。そして薩摩の
有村次左衛門が
井伊直弼の首をとった、とされている。
直弼による「
安政の大獄」と、そして「
桜田門外ノ変」は対をなしている。果たして「悪」なる
井伊直弼と、悪政をぶった斬った尊攘志士が幕末という時代のピークに火を付けた、というエピソードに終始するものなのか。もっと大きく俯瞰してみたところで、双方全てひっくるめた命を賭けての
大芝居がこの国を護り新時代へ持って行ったといえるのか。考察はまだまだ続く。