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【岩倉具視幽棲旧宅】@龍馬をゆく2020

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森の多い上加茂村を経、松ヶ崎村に入り、そこをさらに経ると、坂がある。
狐坂という。
古歌にも出てくる坂で、いまでもその名のとおりよく狐が出るという。この坂までくればもうそこが岩倉村である。

 「竜馬がゆく」で中岡慎太郎が、岩倉村で隠棲する岩倉具視を訪ねるシーンです。京都観光でもなかなか訪れる事が出来なかった岩倉村に2020年1月、ようやく行くことが出来ました。烏丸線の終点、国際会館から実相院行きのバスに乗りました

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「史蹟 岩倉具視幽棲旧宅」。

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正門より奥まった所から、見学者用の入口がありました。
時は1月、誰ひとりいません・・笑 町外れの道路や、石碑、墓などでは私のようなもの好きは他にいないのは解りますが、このような重要な幕末史跡なのに誰もおらんのか・・、と、改めてその地が「京から外れている場所」であることを実感させられます

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「旦那さん」と這いよってくる影がある。「うまく行ったか」「へい」

与三である。

岩倉の忠僕で岩倉村のせがれである与三は、岩倉の密使として京を行き来しています。この幽宅の同居人であり、家士の藤木右京とこの与三のみ。物語では夜陰、岩倉幽宅を訪れる中岡を与三が手引きするシーンが描かれています。幕府は幽宅の道を隔てた向こうに監視所を置き、会津藩士数人を詰めさせていました。与三がその者達に酒を買い、酒盛りをさせているうちに、中岡を案内しているのです

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結構な敷地面積の中に、主屋がありました。当時は北側に畑があり、自給していたらしいですから、この母屋の左側奥が畑だったことでしょう

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玄関に入ると、その説明書きに龍馬、中岡、大久保の名が登場します。これは一般ファンも引き付ける要素ですね。私も俄然、興奮が高まってきました・・!

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文久二年(1862)に佐幕派の奸物として勅勘を被り朝廷を追放され、朝命によって京都市中に居住することを禁じられていた岩倉具視。岩倉はその悪名ゆえに、屋敷に過激志士から人間の腕を投げ込まれたり、刺客が家の様子をうかがったり、とても安穏な日では無かったようです

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ここでもう一人の重要人物を紹介しなければなりません。

玉松操。

この老人が、この岩倉幽宅で倒幕の密勅を書き、錦の御旗のデザインを考えた人です

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老人が庵を結んでいたのが近江の国、真野ノ里。そうです、琵琶湖大橋を渡った堅田側、琵琶湖西岸の漁村です。これまた、現滋賀県民の私には非常にリアリティを感じる「玉松操」なのですが、まあ、いわゆる一種の奇人です。もともと生まれは良く、下級とは言え公家の山本家の次男。元服後に宇治の醍醐寺に入れられ僧となり、一山きっての学僧となりました。しかし、生まれつきの癇癪持ちで、怠惰許せず周囲を攻撃しまくり嫌われ孤立、ついには僧服を捨てて寺を出ざるを得なかったそうです。還俗して諸国を流浪するうち、世の中は「幕末」をむかえていました。

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熱狂的な攘夷主義者。攘夷と討幕と王政復古こそが救国の道、とする強烈な思想の持ち主。そんなアブナイ老人の運命が一変することになったのが、幕末も押し迫った慶応三年の正月でした。

「琵琶湖の西岸の片田舎に、玉松操という隠君子がいる」
「その学識は天下におよぶものがござりませぬ」

岩倉具視は幽棲のこの部屋で、自らの文章を代筆してくれる者、名文家を探していました。幽囚の身である以上、密書を四方に飛ばす以外に活動の方法が無く、それも名分で無ければ宮廷を、志士たちを動かすことが出来ないからです

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岩倉幽宅を訪ねていた江州出身の志士、三上兵部という浪人が、「ひとりおりまする」と玉松操の名を挙げたのです。三上は玉松が坂本に居住している時から師事し、真野にもしばしば足を運んでいた数少ない玉松老人の門人でした。

「頼む。連れて来てくれ」

岩倉に頼まれた三上。しかし何ぶん相手は難物中の難物、強烈な攘夷討幕主義者。ましてや「奸人」としての悪評高い岩倉は、皇女和宮を関東に売り奉った一人ではないか・・!人間離れした難物を連れて来るには、賓師として遇せねばならないが、もちろん金で動くような人物でもありません。師である玉松を説得し、連れてくることは出来るのか・・、三上は確約出来ないまま、それでも老人への説得へ近江へ向かいました

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案の定、玉松老人はそう簡単に首を縦に振りませんでした。

「兵部、そちは岩倉輩とむすび関東の走狗となったか、帰れ」と言われる始末。

しかし三上は、翌日にも再び玉松を伺い説得を重ねました。岩倉卿と先生が手を結べば天下のことが成る、しかるに先生は才を隠し身を隠し、天下の危難を救おうとなさらぬ、「先生には憂国の至誠がござりませぬ!」
この一言が老人を釣り、「この目で岩倉を見よう、それからのことじゃ」と引き合わせる事に成功したのです

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 岩倉と会った玉松操は激烈な攘討幕論を論じ、岩倉がそれに賛同すると感激し、いよいよ岩倉の謀将となりました。
玉松操が来てから岩倉の秘密活動は活発になり、京の公家有志や薩摩藩邸などにしきりに密書を送ります。玉松老人が起草し、岩倉が筆写し、下僕の与三が京へ届けるという役回り。司馬先生書くところの、「岩倉村は討幕計画の策源地のようになった」。謀略、陰謀、そんなイメージの強い岩倉具視ですが、前大納言中山忠能を抱き込んでゆく、という面があるかと思いますが、ここはまた深く・・・。ここでは触れません

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四畳半の部屋が、玉松操が錦旗の図案などを考えていた部屋ですが、ここがその「策源地」か・・、と思うと鳥肌モンです・・。
ご周知、薩長軍に錦の御旗を持たせることを提案した玉松操。しかし、錦旗の図面など無ければ絵図にも無く、誰も見たことが無いのです。こんな感じ、というデザインを創案し、討幕の密勅なども草案されたこの四畳半は、いわば幕末の工作室、幕末ラボといった部屋でしょうか

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薄暗い部屋に展示された説明書きには、与三のことなども触れられており、幕末ファンの興奮を一気に高めてくれました。ある日の暴風雨によって、吹き飛ばされそうになる秘密文書の数々。それを吹き飛ばされまいと、手足のみならず身体ごと使って必死におさえた、という逸話が有名ですね

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と、ここまで、岩倉幽宅と玉松操について書いてきました。いつもの「司馬遼太郎をゆく」に依る所多しですが、「竜馬がゆく」でも中岡慎太郎に連れられた龍馬がここを訪れ岩倉と面会する場面が描かれています

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慶応三年、幕末も押しに押し迫った時期ですが、ご周知、この数カ月後に龍馬、中岡はこの世を去ります。ここからは私のお得意の、幕末妄想ワールドですが、この時点から遡ること足掛け5~6年、岩倉のここでの隠棲が始まるわけです。そして更に遡りますが、岩倉の隠棲の直前、文久二年の四月に安政の大獄で一斉に蟄居謹慎した、慶喜、春嶽、永井、それから中川宮などが赦免され復帰しています

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龍馬を更にもう一年遡りますと、文久元年に土佐勤王党に加盟しています。
時系列に整理いたしましょう。
安政後期に井伊大老が就任する→安政の大獄安政の末期に慶喜らVIPの一斉謹慎→安政末期から龍馬の記録が消える→万延元年桜田門外の変で井伊大老暗殺→文久元年土佐勤王党加盟で龍馬の記録が再発→文久二年に慶喜らVIPの復帰→岩倉共に隠棲→慶応三年大政奉還

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さて、この一連の流れは何を意味しているのでしょうか。単なる歴史事象の連続でしょうか。この一連の流れをひとつの大きなうねりのカタマリ、として見た場合、そこには何らかの意図のようなものが浮き彫りになってくるように思うのは私だけでしょうか

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維新の前、直前に出て来るのが岩倉具視です。その前段階で当時のVIP達が揃って表舞台から姿を消していました。安政期に幕末維新における準備の最終段階に入り、いよいよ「最後の締め」に岩倉が登場したように見えるのは、私の妄想が激し過ぎるからでしょうか。そして記録の無い時期、龍馬はどこで何をやっていたのか

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ちなみに、懐かしの500円札ですが、よく言われるように、この岩倉具視も顔右半分と、左半分では全然別人ですよね・・・。

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「龍馬をゆく」を始めて以来、かれこれ16~17年、全国各地を巡って来ました。当初は純粋に龍馬ゆかりの地を、ゆったりと巡る楽しみだったのですが、気が付けば幕末維新の深い深い迷宮に入り込んでしまいました・・。それは、もう、楽しいどころの騒ぎではありません。知れば知るほどに、ゾクゾク武者震いする思いです・・。徳川幕府VS薩長という幕末の構図は、私の中ではもはや完全に崩れ去りました。
そういう意味でも、今回の岩倉幽宅巡りは、幕末の主役の一人と目される岩倉具視の策謀の5~6年に想いを至らせるものとして、私にとって非常に濃いひとときでありました

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岩倉具視幽棲旧宅@2020年1月

 

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