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【十津川屋敷跡地】碑|京都|幕末|@龍馬をゆく2021

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御所の東の南側に、「十津川屋敷跡地」碑がありました。

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なるほど、ガッチガチの勤皇の十津川郷士の屋敷はここにあり、篤く御所を守護していたということですね。

以前十津川村を訪れた記事を上げましたが、元道民として「新十津川町」のルーツを辿るものでしたが、いわばそれは副次的なものでして・・十津川村を訪れた最大の目的はもちろん、私のライフワークである幕末巡りです。

「十津川」と聞いて思い浮かぶのは西村京太郎の「十津川警部」ですが・・、幕末ファンとしてその名を初めて聞いたのは「竜馬がゆく」の物語ででした。龍馬の物語のクライマックス、龍馬が暗殺される時に登場する名称なので、ショッキングな響きと共に印象的に心に残ります。

 

 

 

しかし、作品を読んでいても「十津川郷士」?十津川郷とは??いずこだ??という認識で、これは恥ずかしながら昨今、近畿に居を移すまでそういった認識でしかありませんでした・・。

自身の龍馬・幕末巡りでも、空港や主要な駅がある拠点からは遠く、「最も距離の長い路線バス」に乗ってまで訪れる機会はなかなか無く・・それが昨年2021年、車で行ける!と思っていざ、出掛けて行った訳であります。

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結果、いろいろ衝撃を受けました。こんな所だったのか・・・!と。

持っていたイメージとしては、もうちょっとのんびりした農村と言うか、穏やかなイメージだったのですが、なんと険しい山、山、山!

そんな十津川村で、龍馬・幕末ファンとしてはお馴染み、「中井庄五郎」を巡って参りました。

その時私の中でひとつの思いというか、まあ、いつもの妄想癖の範疇なのですが・・ちょっとした構想が浮かびまして・・・。それを今、自分の中でじっくりと醸造して行かんとしている最中であります・・。

以前にHPを展開していた頃に一度、「SF幕末談」というお遊びをした事があったのですが、まあいわゆる創作を、久しぶりにやってみようかな、といった所です。

その短編の「作品」の前に、まずは十津川郷士・中井庄五郎のログを上げ、その後に展開してもようと考えております。

誰ひとり、興味のある方はおられないでしょうが・・^^;こうご期待・・!笑

 

孝明天皇に、

「十津川郷士が守護に当たっている夜は、一番安心して寝られる」

と言わしめたとされる十津川郷士

長州をはじめ、都合良く「玉」を利用せんとしていた幕末の志士たち。そんな中にあって純粋に、天皇を御守りしようとしていたのは十津川郷士だけ、と言えるのかも知れません・・・。そうした勤皇に篤い十津川郷士達の目線から幕末を見て見ると、またひとつ見えていなかった幕末が浮き彫りになってくるような気がします・・。

 

そんな十津川郷士にまつわる京都の史跡、「十津川屋敷跡地」碑でした。

@京都2021

 

【本圀寺】なぜ山科へ移転をしたのか?@龍馬をゆく2022

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大宮通り沿いの六条付近に不思議な石碑が建っています。

大本山本圀寺」。

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「お寺」?の石碑にも関わらず、周囲は住宅が立ち並んでおり、それらしい雰囲気はありません

なんだろう・・? 

 

 

調べてみると、なるほどどうして・・・非常に幕末と密接に関連している事に気が付き俄然興味が沸いてしまいました・・・!

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元々、六条堀川のこの地に「本圀寺」がありました。

現在は山科の地に移転しており、元々ここにあった事を示す石碑のようです。

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かつての敷地面積は広大であったようで、北は現在の五条通付近から南は七条通り、東は堀川通、西は大宮通りまで、相当広い面積を持っていたようです。

それが豊臣の頃、秀吉の命により南側の二町歩を西本願寺建立の為に割譲しました。

現在の聞法会館とそこにある広い駐車場、東急ホテルあたりがその広大な敷地の名残として解り易い感じで残っています。

猪熊通りから西にはたくさんの家屋が建っている為、むかし寺の敷地だった感はまるで無く、その一角に建つこの碑も不思議さを感じる一因です。

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気になった私は、早速移転先の山科の「本圀寺」へと訪れました。

地下鉄「御陵(みささぎ)駅」から丘陵を登り本圀寺の入り口に差しかかると、琵琶湖疏水が流れていました。水量が少なく感じるのは、昨今の琵琶湖の水位低下の為でしょうか・・?

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琵琶湖第一疏水を跨いで、正嫡橋を渡るとこれまた立派な石碑が建立されています。

ん・・・!「正嫡橋」・・・??嫡・・・・!!

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石碑の文字は、何と書いてあるのか読めません・・。

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本圀寺のはじまりは、日蓮上人が建長5年(1253)に鎌倉の松葉ヶ谷に開いた法華堂が始まりだと言われています。

弘長3年(1263)に大光山「本國土妙寺」が創建され、日蓮宗第四世・日静上人が貞和元年(1345)、光明天皇より寺地を賜わり六条堀川の広大な敷地に移転しました。

室町幕府の成立により、武家政権が鎌倉北条氏から京都の足利氏へ移った訳ですね。ちなみに、戦国期の?永禄11年(1568)には足利義昭が御座所として本圀寺に入っていたそうです。

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江戸期になると徳川家康が元和元年(1615)に本圀寺の寺領を安堵すると、「水戸黄門」様、水戸藩主・徳川光圀が生母の追善供養を行います。(光圀は京都へは行っていない)

その縁から、光圀の名前の文字から「圀」の字を与えて、「本國寺」から「本圀寺」に改称したとされています。

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ところが境内にあるこの梵鐘にまつわる説明書きとは異なっており、巷間伝わる上記伝とは逆の話になっています・・。

鐘の前に設置されていた説明書きによると、光圀の名前は「大光山」の「光」と、本圀寺の「圀」を本圀寺から水戸徳川家に賜り、それ以来光圀と名乗った、と書いてありました・・。

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いずれにせよ江戸時代より、本圀寺は水戸藩と非常に深い関係にあったようでして、ちょっと一筋縄ではいかない幕末にも深く関係しているように思えてしまうのでした・・・。

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渋沢栄一の「徳川慶喜公伝」によれば、文久3年3月の将軍家茂上洛当初から、六条堀川の本圀寺には水戸藩士が駐屯していたそうです。

 

そして本圀寺は、鳥取池田藩の屯所でもあったんですね・・。

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ここで一度幕末水戸家を整理してみますと・・・、

慶篤→水戸藩主(中納言

池田慶徳鳥取池田藩主

慶喜→15代、最後の将軍

昭訓→左衛門佐

昭武→民部大輔

烈公の子、慶徳は慶喜とは異母兄弟ですよね。なるほど、慶徳繋がりで本圀寺は鳥取池田藩の屯所でもあったんですね・・。

こうしてみると、本圀寺と水戸徳川家との関係が色濃く見えてきました・・。

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当時、昭武にいたっては数え11歳ですが、その伝によれば上洛当初は長者町の水戸藩邸に居たと。禁門の変の後、東山の長楽寺に移り、その後堀川六条の本圀寺に滞在したといいます。その時既に、水戸藩士達は本圀寺を屯所としていたそうです。

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将軍家茂入京時、本圀寺には水戸藩士が駐屯。将軍家茂、攘夷期限を5/10上奏。長州藩が下関で外国船を砲撃騎兵隊編成薩英戦争、そして8月には大和で吉村虎太郎ら天誅組が挙兵します。

その同日8月17日に起こったのが「本圀寺事件」です。

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本圀寺に宿泊していた鳥取藩の公武合体派の重臣、黒部権之助らが同藩の尊攘派・河田左久馬らによって襲撃され殺された事件です。

そうです、翌日の8月8日は「八一八の政変」。その前日尊攘派公武合体派を襲撃したんですね。翌日には政変が成り、公武合体派が政権を握り尊攘派の弾圧が始まるという、まさにそのタイミング。

昨日と今日で、世界というのはひるがえってしまうのですね・・・。

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また、本圀寺は熱烈なる法華経信者であった加藤清正が多大な寄進をしていたそうで、これによりかねてから境内には「清正堂」が祀られていました。

今でもそれを引き継いで、「清正宮」として祀られていました。

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昔の本圀寺の絵図を見ても、「清正堂」がしっかり描かれており、なるほど清正公は熱烈な法華経信者だったのですね・・。

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そしてこれも有名らしいのですが、境内にある水でお金を洗い清めるとご利益があるそうで、洗ったお金を入れるお守り袋のようなものも社務所で売っていました。

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さて、今回「本圀寺」を巡ってみましたがネット等を見ると、京都から山科に移転した理由として、末寺の離散や借財により六条堀川の土地を売って現地に移転したように書かれておりますが、書き込みによってはお坊さんのギャンブルによる借金が嵩んだ、なんてものまである始末で・・いかにも適当さを感じてしまうのですが・・その実際の理由とはなんだったのでしょうか・・。

一方で再び六条堀川へ戻す動きもあるとかで、それも気になるところですが、水戸徳川がガッチリ固めていた寺、という所にただならぬものを感じてしまう私がおりました・・・。

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ウィキペディアの本圀寺事件に関する記載で気になった一節が

文久3年(1863)には鳥取藩士による本圀寺事件が起き、また水戸藩徳川慶篤に率いられた尊攘派藩士が駐屯し、皇室徳川慶喜の警固に当たって本圀寺勢(本圀寺党)と呼ばれた。

という点です。

山科に移転したのは昭和40年代になってからだと思いますが、一説によると昭和天皇ご即位にまつわる祭事の年、昭和初頭、六条堀川にあった本圀寺の塔頭?か何かの一部の建物が取り壊されていたという話もあり、それが本当だとすればこれは何を意味するのでしょうか・・。

私の幕末の旅は、まだまだ終わりそうにはありません・・。

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@京都2022

 

 

 

【幕末志士葬送の道】|龍馬坂|(龍馬が運ばれた道)@京都2021

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幕末・龍馬巡りで初めて京都を訪れた2006年当時、「龍馬が運ばれた道」というログを上げました。

これは、霊山護国神社の南側に位置する坂なのですが、元々はこの階段を上がった先にある「霊明神社」に葬られていたことに由来する訳であります。

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今現在の位置関係からすると、霊山護国神社の入口からみると後ろの奥の方にあたり、なるほど当時超危険人物の一人であった龍馬の葬送は襲撃される可能性もある為、「裏手」のこの道から人目を忍んで運んだんだな・・と当時は思っていました。

 

 

 

ところが実情としては、この先にある「霊明神社」にそもそも葬られていた訳で、普通に埋葬地まで真っ直ぐ上がったということになりますね。

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当時はこのような石碑もありませんでした。

2010年?やはり、大河ドラマの影響力というのは絶大なんですね・・。「龍馬伝」が放送された2010年、各地に龍馬関連のこうした新しい石碑等が建てられたようです。

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坂本龍馬 中岡慎太郎など幕末志士葬送の道」碑

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文化六年(1809)に村上都愷が、徳川幕府の仏教政策下にありながら神道葬祭を断行し「霊明社」を創建しました。それが「霊明神社」になり、文久二年には伸葬祭を進める長州毛利家と縁が出来たそうです。

長州と神道、これにより幕末には在京志士たちの葬送・祭祀の地となり、慶応3年の龍馬暗殺時には中岡と藤吉の遺体もここ「霊明神社」に葬られたということです。

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維新後には創建間もない東山招魂社に譲られたのはほかでも無く、「彼ら」の政府になった訳ですからね、そこは自然な流れかも知れません。

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ここからが霊山の墓地になりますが、たしかあの時は向こうから逆にここまで来て、このようには閉ざされていなかった記憶なんですがね・・・。だって墓地から通り抜けて坂を下ったんですから、やはりこれもひとつの時代の流れでしょうか・・。たしかに、開いてたら逆にここから入れちゃいますもんね・・・。

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霊山の墓地への通路を越えて更に少し登ったところに、霊明神社はありました。

灯籠には「王政維新百五十年」の文字が刻まれていました。

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2006年当時の私の幕末は、「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」だけで出来上がっていたので、こちらの神社の存在すら知りませんでした・・・。

あれから15~6年後に、こうして再びこの地をこうしてじっくりと、(全国的な目線でみたら)地元として歩いているとは当時夢にも思っていませんでしたね・・。

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神社の塀には由緒書きと共に、なにやら英字新聞が貼ってありました。

龍馬亡き後??

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京滋に移住してから、「幕末志士葬送の道」という碑が出来ている事を知って以来、ずっとチェックに再訪してみようと考えていたので、ようやくその帳面が消えました。

龍馬・幕末ファンの皆さま方には、ぜひ龍馬らのお墓参りに訪れた際には霊明神社とこの坂に、想いを馳せてみていただきたいと思います。

 

【孝明天皇陵】|泉涌寺|@龍馬をゆく2021

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あれは昨年2021年の初夏、6月だったと記憶していますが、めちゃくちゃ暑い日でした・・・。

泉涌寺まで坂を登って既にヘトヘト・・・。照り付ける日差しがもはや真夏のそれで、クラクラめまいがするくらいの暑さでした・・。

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泉涌寺に着きました。が、この日は久邇宮朝彦親王の墓地と、孝明天皇の陵を訪れるのが目的でしたので、お寺の参拝はせず・・。

横目で本堂をやりすごし、更なる坂道を登ってゆきます・・・。

 

 

 

 

孝明天皇陵へ至る参道は砂利が敷かれ、砂利にヘロヘロになった脚が取られてフラフラしながら門前に至りました・・・。

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着きました。

孝明天皇陵」。

凄い構えです・・・。お墓の入口が、大名屋敷の門のようになっていて、固く閉ざされていました・・。俗物をまったく受け付けない威厳・・・。何やら、独特の空気感を感じました・・。なんと言いましょう・・まるで、音の無い世界・・・。全ての時が止ったように、降り注ぐ陽光さえもその動きを止めているように感じます・・。異様なムードが漂います・・。

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孝明天皇

言わずと知れた、幕末の天皇です。

 

明治維新を成し遂げたのは誰?坂本龍馬西郷隆盛桂小五郎薩長土をはじめとする西南雄藩?薩長のクーデター?いやいやいや、そんな浅い話ではありませんよね。

当時、最高の情報を持っていたのはきっと朝廷ですよね。多分、海外情勢の高度な情報を持っていたのは誰ほかならぬ、朝廷だったと私は思うのです。幕府よりも格違いの高度な情報を持っていたと思っています。

大きな政界情勢のうねりの中、グローバリズムの波に抗えない事を最も解っていたのも朝廷でしょう。地球規模の流れに抗えない以上、いかにして国を護持してゆくか、これを最も考えたのも自然、朝廷ではないでしょうか。幕府もしょせん徳川の「お家」。これまでの幕藩体制では立ち行かない以上、いかに現行システムを解体し、いかに犠牲を最小ににソフトランディング出来るか。

維新の何年も前から、幾重にも編み込まれたシナリオが作られていったと思います。後に私たちが「幕末」として認識する偉人たちは、西南雄藩も幕府も全部「登場人物」です。演者としての己の役割を認識していた人、いなかった人、様々あるかと思いますが、そんな大きく底知れぬ深いシナリオの中で、皆志を持って命がけであったことは事実だと思います。

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孝明天皇天然痘でお亡くなりになった、というのが史実とされているものです。

孝明天皇は本当に病気でお亡くなりになったのか?これには「毒殺説」が根強くあり、むしろそちらの方が主流かも知れません。

 

私は、病気でも毒殺でも無かったと考えています。だって、誰も天皇のお姿なんて見た事がないわけですから。取り巻きのほんの一部の者しか?実際の天皇を見たことがなかったでしょうし、その者たちから姿を隠せば、「いなくなったこと」になるのですから。下々の民においては、「お亡くなりになられた」と言われれば、それ以上でも以下でも無く、そこに「本当にご病気だったのか・・」「毒殺されたんじゃないのか・・」という疑問を持たせれば、もう結果として「お亡くなりになられた」が確定されるようなもの。疑問を持ってくれた方が都合が良く、目は「お亡くなりになった話」に行き現世から逸らせることが出来ますから。

どうでしょう、これもまた、ファンタジーでしょうか・・。

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ラクラと、めまいを感じるのはこの暑さのせいだけではないのかも知れません・・。

私の幕末の旅は、まだまだ続きます

@京都2021

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久邇宮墓地【朝彦親王墓】@龍馬をゆく2021

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泉涌寺の駐車場の奥に、久邇宮家墓地があります

ここに久邇宮朝彦親王の墓があり、訪れました

合掌ー。

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厳重に閉ざされた敷地の向こうに、土山のような盛り上がりが見えます。あちらが朝彦親王のお墓のようです。

朝彦親王は文政七年(1824)のお生まれのようですので、龍馬より十ほど上になります。幼名は熊千代、九歳で本能寺に学び、天保八年に十四歳にて親王宣下。龍馬が二、三歳の時ですね。

伏見宮第四皇子の朝彦親王は二十九歳にて粟田口青蓮院の門跡となります。青蓮院粟田宮とも呼ばれたそうですが、孝明天皇の護持僧となって諸事相談を受け朝政にも関与する身でありました。 

 

 

私が最も注目する安政年間、安政五年(1858)には将軍継嗣として一橋慶喜推し。戊午の密勅に関与し安政の大獄で慎(つつしみ)を命ぜられます。安政六年(1859)2月から、9月には更にこれに重ねて隠居、謹慎、永蟄居、12月には青蓮院を追われ相国寺の奥に幽閉されていたそうです・・。

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これが文久二年(1862)4月になりますと、青蓮院に復帰します。

ちなみに、1860年1862年までの19カ月間は慶喜公の蟄居期間とまったく被っているんですね。

さらなる「因みに」、我らが坂本龍馬、1859年~1861年までの約二年間、25~27歳時の動静がまったく記録が無いのです・・・。龍馬は安政の大獄の網には引っ掛かっていないはずですが、これまたまったく同時期になります。

例の有名なエピソード、安政五年11月に水戸藩士・住谷寅之助が龍馬と面会し、住谷は龍馬に失望して帰ったとされる話、そこから龍馬の動静の記録が途切れているのです。

文久元年に龍馬が土佐勤王党に加盟してから再び記録が出て来るのですが、その間どこで何をしていたかが全く不明です・・。龍馬が土佐勤王党に加盟して約半年後くらいですね、文久二年に朝彦親王は青蓮院に復帰しています。

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安政五年に安政の大獄が始まって以来、幕末ビッグネームの面々が皆、足並みを揃えて蟄居・謹慎・隠居に入るのです。

烈公慶喜春嶽、青蓮院。「下々」の方では吉田松陰が処刑されましたね・・。

朝彦親王公武合体派の領袖として「魔王」とあだ名されていたそうですが、この安政の大獄におけるVIP達の蟄居謹慎期間、龍馬の動静不明期間を解明したならば、巷間伝わる幕末史は大きく変わることになりましょう。

無論、我らが「坂本龍馬」も大きく変容された在り様に変化することになるかも知れません・・。

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さて、朝彦親王

徳田武著「朝彦親王伝」によると、奈良奉行川路聖謨が「寧府記事」に当時朝彦親王から伺った話として次のように書き残しています。

わが実家は吉野の皇居の血筋なる故か、ことに盛にして、当時は禁裏も後醍醐帝の御血筋、近衛も鷹司も皆、わが実家のもの共が継ぎたり。不思議なることよと御意也。

 

 

 

・・・・・。

これは弘化四年(1847)十月、当時24歳だった朝彦親王が語った話、だというのです・・・。南北朝合一以来この時までの天皇は、全て北朝伏見宮男子孫であるというのが通説ではありませんか・・・?「後醍醐帝の御血筋」「吉野の皇居」とは、南朝皇統のことですよね・・・・。

伏見宮王子の朝彦親王が、いわゆる通説とは正反対の事を言うというのは、一体どういうことでしょうか・・・。更にこれについて、巷間の史家がまったく触れないというのも・・実に不思議です・・・。

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さあ・・、そろそろ危なくなって参りましたので、このあたりで・・。

@京都2021