幕末・龍馬巡りで初めて京都を訪れた2006年当時、「龍馬が運ばれた道」というログを上げました。
これは、霊山護国神社の南側に位置する坂なのですが、元々はこの階段を上がった先にある「霊明神社」に葬られていたことに由来する訳であります。
今現在の位置関係からすると、霊山護国神社の入口からみると後ろの奥の方にあたり、なるほど当時超危険人物の一人であった龍馬の葬送は襲撃される可能性もある為、「裏手」のこの道から人目を忍んで運んだんだな・・と当時は思っていました。
ところが実情としては、この先にある「霊明神社」にそもそも葬られていた訳で、普通に埋葬地まで真っ直ぐ上がったということになりますね。
当時はこのような石碑もありませんでした。
2010年?やはり、大河ドラマの影響力というのは絶大なんですね・・。「龍馬伝」が放送された2010年、各地に龍馬関連のこうした新しい石碑等が建てられたようです。
文化六年(1809)に村上都愷が、徳川幕府の仏教政策下にありながら神道葬祭を断行し「霊明社」を創建しました。それが「霊明神社」になり、文久二年には伸葬祭を進める長州毛利家と縁が出来たそうです。
長州と神道、これにより幕末には在京志士たちの葬送・祭祀の地となり、慶応3年の龍馬暗殺時には中岡と藤吉の遺体もここ「霊明神社」に葬られたということです。
維新後には創建間もない東山招魂社に譲られたのはほかでも無く、「彼ら」の政府になった訳ですからね、そこは自然な流れかも知れません。
ここからが霊山の墓地になりますが、たしかあの時は向こうから逆にここまで来て、このようには閉ざされていなかった記憶なんですがね・・・。だって墓地から通り抜けて坂を下ったんですから、やはりこれもひとつの時代の流れでしょうか・・。たしかに、開いてたら逆にここから入れちゃいますもんね・・・。
霊山の墓地への通路を越えて更に少し登ったところに、霊明神社はありました。
灯籠には「王政維新百五十年」の文字が刻まれていました。
2006年当時の私の幕末は、「竜馬がゆく」と「燃えよ剣」だけで出来上がっていたので、こちらの神社の存在すら知りませんでした・・・。
あれから15~6年後に、こうして再びこの地をこうしてじっくりと、(全国的な目線でみたら)地元として歩いているとは当時夢にも思っていませんでしたね・・。
神社の塀には由緒書きと共に、なにやら英字新聞が貼ってありました。
龍馬亡き後??
京滋に移住してから、「幕末志士葬送の道」という碑が出来ている事を知って以来、ずっとチェックに再訪してみようと考えていたので、ようやくその帳面が消えました。
龍馬・幕末ファンの皆さま方には、ぜひ龍馬らのお墓参りに訪れた際には霊明神社とこの坂に、想いを馳せてみていただきたいと思います。