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北海道新十津川町のルーツを辿る旅【十津川村歴史民俗資料館】@奈良県2021

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2021年7月、私のライフワークである幕末巡りにて、奈良県十津川村を訪れました。

十津川村と言えば、そう、我らが北海道は新十津川町のルーツ!馴染みのある「しんとつかわ」のルーツを辿るべく、今回は幕末記事ではなく、その他歴史ログでいきたいと思います(^^)

初めて訪れた十津川村はまあ、山深い・・・!正直、元道民の私的には、山、自然言うてもそこそこのもんだろう・・的に思っていましたがこれが大間違い・・!すっげえ山なんすねぇ・・・^^;失礼いたしました・・!

その道中、はっ!とした瞬間がありまして・・、あっ・・・!何か、動物・・!?と思ったら猿でした^^;!野生の熊や鹿、キツネ等は出くわした事はありましたが、こと野生の猿は初めて^^;!びっくりしたと同時に、感動しました・・!北海道に来て、道中キツネや鹿に遭遇して興奮しちゃうのと同じですね~笑

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先日UPしました十津川村の名所、「谷瀬の吊り橋」なんかを訪れた後、村の中心地である役場前に到着。

本当に山深い土地と見えて、なにせ平地が少ない・・^^;僅かな平地を見つけて、そこに居住地を作っているいるような感じなんですね・・。

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その役場の向かいの崖の上?に建つ「十津川村歴史民俗資料館」。ここを訪れるのを楽しみにしていたんです~!注意して探さないと、「この上」にあって道路沿いに見えないし、一瞬にして走り抜けてしまいます・・^^;

一般的には恐らく、ふあ~っと見学して、田舎によくある郷土資料館だなあ・・くらいの感想で帰る施設じゃないかと思うんですが^^;、ここね、私的にはめっちゃ内容濃いっすよ!笑 マジで。

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ところで、「21世紀の森」なんて書いてある!21世紀の森言うたら、北海道は東川町の奥にあるでしょう・・!へえ~・・!そんな所にも、北海道と十津川村との共通点があるんだ・・!なーんて思ってマップを調べてみたら、「21世紀の森」って名前の森って、結構全国各地にあるのね・・・^^;笑

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さあ、さっそく資料館へ!階段を昇るも、いや~・・・すげー山だわ・・・笑

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十津川の場所はここです。ちょうど紀伊半島の山のど真ん中に位置していて、まあそらあ、山だわな・・笑

龍馬・幕末ファンの方には、龍馬暗殺時の刺客が「拙者、十津川郷士の者です。坂本先生ご在宅なれば、お取り次ぎ願いたい」と名刺を出した、という有名な場面があると思うのですが、はて?十津川郷とは??一体どこのことだろう、と思った方も多いんじゃないでしょうか。私も当初、その一人でした。

ちなみに北海道の新十津川町はこのあたりです。滝川の西側、手前にはピンネシリがあって、向こうには雨竜町の湿原なんかも有名ですが、暑寒別岳なんかもそびえていて、まあ・・相当な山ですわ・・^^;

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再び、「本家」の十津川村に戻りまして・・、見て下さい、この山の尾根からいくつものひだのように畳まれた複雑な谷、谷、谷。

この複雑な地形の特徴から、人々が生活出来る場所は限られており、川筋近くよりも山の中腹でお椀のように開けた土地に住居することが多かったそうです・・。山が高いのに比べ本流筋の標高が低いが為に、谷を深く感じるらしいですね・・。

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で、これですよ・・!

明治になって大八車が通れるような「車道」を開削するまでは、幅1mも無い尾根筋の山道が主な街道であり、そこを人が荷物を背負って往来していたんだそうです・・!

これってよくNHKとかの番組でやっている、中国の山の奥地に住むなんちゃら族的な^^;、木を縛り括りつけたような道を行くやつじゃないですか・・・^^;!そらあ、谷瀬の吊り橋なんか、なんちゃあないですわね・・!こええええ~~~笑

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そして吉野のお山と言えば修験道なんでしょう。修験道と言えば昨年、修験道の総本山という聖護院門跡を訪れ、少し勉強させていただいたのですが、なるほど・・・こうして実際お山に来ると、その修行の厳しさ険しさ、そういったものの臨場感が伝わってくるような、武者震いの鳥肌が立つ思いになります・・・。

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この修験道というものもまた、非常に難解な奥深さがあると感じるに・・、日本人のルーツのひとつを探るような観点からも、これから先勉強を続けていきたいコンテンツであります・・。

 

 

 

十津川村では山仕事がメインだったことでしょうから、そうした点からも山の神に対する信仰は根強いものがあったことと推察します。各々の家で独自の「山の神」を祀っていたり、山仕事で入山する際には仲間うちで祠をしつらえて、祭礼を行ったりしていたそうです。

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十津川郷は江戸期には幕領でしたが、年貢を免除されていたといいます。これはどうしてなんでしょうね・・、平地が無いから、米が獲れないからでしょうか・・。

このことから、郷民の意識の上には直接的な支配者が存在せず、区域の政治が郷民の自治組織で采配されていたそうです。こうした郷民の自治的な施政によって、郷民の信仰・宗教までもが左右されていたと説明されていました。

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吉野と熊野の中間に位置する十津川村では、奈良時代以降に修験者往来の影響を受け、仏教・密教に呪術が混淆した信仰が広まって来ました。

その状況に変化が起こったのは寛文の頃幕府が本末制度を取り入れた時で、この時十津川では郷全体で一斉に禅宗に帰依したそうです。これに関して資料館の説明では、

ここで他の宗派ではなく、禅宗を選んだのはどういう理由だったのか、はっきりしたことはわかりませんが、禅僧は妻子を持たず世襲制ではなかったことも関係するかも知れません。宗門帳が村ごとに作成され、一つの寺院が村内すべての住民を檀家として保証していたことをみても、何らかの政治的な圧力を感じざるを得ません

とされていました・・・。

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維新後の神仏分離令を受けて、郷はまず慶応4年、玉置山の神仏分離を行い、次に明治6年に各村の廃寺を行いました。これにより郷内から仏教色が一掃されましたが、その後に再建をみなかったことが特徴的なことであります。

その一因として、神道系の一教派に属することを強制し、離脱を許さないという郷評定が下されたためだそうで、郷全体で一致した行動を取ることの有利性を考え、申し合わせたものだと説明されておりました。

ちなみに北海道新十津川町の開拓における開墾の歴史にて、冷害に強い水稲品種を開発したらしいのですが、その名も「玉置坊主」。これもこの地の玉置社をルーツにした名前なのでしょうか・・(^^)?

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かつて「十津川」と呼ばれる地域には、59の村々があり、近隣の数村で「組」をつくり、さらにはその組の集まりで「上組」「下組」を構成し、上下の組を合わせて「郷」を組織していたといいます。

この最上層である会合が「郷会」。村役の構成員は順番性で、固定したトップは置かないシステムで、郷人の自治性が高かったようです。こうした組織によって、江戸時代を通じて十津川村郷は対外的に一致団結して行動したそうです。

十津川村もその面積は広大です。59の村々があったと言っても、その広さからしてまさに点在していた感じなのでしょう・・・。それがひとつのまとまりを持つ、という事には、やはりマインドを統一すべく一種の宗教性が、神道にあっても特殊性があったのではないかと思ってしまいます・・。

それも時代が下るに従い、商人など郷外との接触も増えたこともあってか、郷民に階層が現れるようになりました。一部の大きな力を持つ者が現れ、そういう人がリーダーシップを取るようになり、一部の考え方が郷全体を誘導するようになっていったそうです。

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さて、本来は江戸時代の末期、幕末動乱の十津川の歴史、十津川郷士の思想背景、更には南北朝あたりの話も出て来るのですが、それはまた幕末の項に譲りたいと思います^^;

話を本題に戻しまして・・、

明治22年の8月の大水害により、十津川の人々の一部が北海道に移住することになりました。平成、令和の今の時代でも、大規模な自然災害が後を絶ちませんが・・、この災害では、熊野本宮のお社も流され高台に移転され現在の場所に至っており、それは甚大な災害であったようです・・・。

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ここに東京芸大、絹谷幸二氏の洋画が飾られておりますが、十津川の大災害をモチーフにした絵だそうです。

明治22年の大災害は、山河の様相を一変させ死者も多数に及んだ
この為、北海道に新天地を求め、また、荒廃した郷土の復旧に立ち上がった村民の「十津川魂」を未来永劫に伝えるものとして、置村100年を迎え往事を追想し新たな世紀に向けて”大いなる十津川”の創造を誓い『十津川に昇る太陽』として絵画としたものである

とてつもない豪雨に襲われた十津川郷は壊滅的な被害を受け、死者168人、全壊・流出家屋426戸、耕地の埋没流失226ha、山林の被害も甚大で、生活基盤を失った人が約3000人に上ったそうです・・。

その救済策が急務となり、生活再建の為移住が検討され北海道をはじめハワイなどの海外も検討されたといいます。(あるいは蝦夷地は海外感覚か・・)

新たな生活地を求めて600戸、2489人が北海道への移住を決断。10月に3回に分かれて神戸から船で小樽に向かいました。この頃の北海道では、屯田兵制度に続いて明治19年に採用された植民計画により、全道的な開発が始まろうとしていました。

小樽から三笠までは汽車で(汽車あったんだ・・!驚)、そこから滝川までは徒歩で雪の中を進んだと言います・・・。ありえないっすね・・・(-_-;)そりゃあ、病人も出れば死者も出ますって・・・。

 

 

 

明治26年6月にようやく、雪解けの石狩川を渡り植民区画の第一号、「トック原野」に入植しました。水害被害から実に役10カ月・・、ようやく移住地の開拓のスタート地点に立ったのであります・・。しかし、そこからの開拓、開墾の苦労がまた・・ハンパでなかったことは容易に想像出来るところ・・・。鬱蒼と生い茂る原始林を切り拓き、根を起こし、蚊やブヨ等虫の大群の攻撃を受けながら、少しずつ進めてゆく開墾は、元来山に住み林業を生業としていた十津川の人とて、並大抵の事ではなかったに違いありません・・。

こうして十津川の人が北の大地に拓いた「新十津川」は、現在約3000戸、6000~7000人の方々が暮らしています(令和3年)。また、十津川村奈良県とも連携し、様々な交流、イベントを続けてきています。最近は、アイツのせいで・・・何から何まで中止傾向ですけどね・・・。

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と、いうわけで、今回北海道は新十津川町のルーツ、奈良県は吉野郡十津川村を見学して参りました。

新十津川町は開拓時代、内地の十津川という所から移住者が開いた土地、だから「新十津川」という認識は道民時代から持っていましたが、やれ明治22年の大災害とか、それにより生活再建に為に移住をされたとか、詳細についてはまったく知りませんでしたので、大変勉強になりました。

そしてやはり現地に自分の足で立ち、自分の眼で見て空気に触れ、そこから五感で体感する以上の理解は無い気がします。非常に有意義なひとときでありました。

余談ながら、北海道にはもうひとつ、内地の地名が付く有名な市があり、札幌近郊の「北広島市」。名前の通り、広島県人が入植した土地になりますが、こちらは明治17年ということですね。十津川郷の方々より、すこし前に入植されたようです。こちらは25戸、約100名とのことで、いかに十津川の方々の移住が大規模だったかが解ります・・。

ちなみに、「本家」広島県には、北広島「町」があるのですね・・、最近ニュースで見て、ああ・・本拠地にも「きたひろ」はあるんだ・・、と思いました・・^^;

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本日も、お付き合い、ありがとうございました(^^)

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奈良県2021