2021年夏、「十津川村歴史民俗資料館」を訪れました。
地方によくある小じんまりとした地元の資料館ですが、正直言って私的には非常に見応えのある資料館でした!
こちらの資料館の二階に、「中井庄五郎が龍馬に貰った?二振りの刀」というものが展示されていました・・。
その刀・・。めちゃくちゃ、デカい・・・・。
長くて太くて、朱色の鞘・・・。
当時腕に自身のある者は、朱の鞘で街中を闊歩していたとも言われており、なるほど居合いの達人と伝わる中井庄五郎も朱鞘を好んでいたのかも知れません・・。
こんなものを振りまわせるのは、相当な怪力だと思わせられる代物です・・。
中井庄五郎は弘化四年(1847)十津川の生まれで、慶応三年(1867)僅か21歳で京都の油小路で討ち死にしました。
世に言う「天満屋騒動」。
坂本龍馬が暗殺された敵討ちに天満屋の紀州・三浦休太郎を遅い、新撰組と斬り合いになり、討死。亨年21-。
私は中井庄五郎というその名から、少しふっくらした大柄で朴訥としたイメージを持っていたのですが、どうやらデカくて髭面だったようです・・。
ウィキペディアを検索してみると、「全身毛に覆われていた」らしく、少年時代より「ヒゲ男」「熊」などとあだ名されていたと書かれていました。
これは私のこれまでのイメージを覆すもので、なるほど、上記バカデカい刀を振り回せる者としてはそういうイメージにピッタリで、展示されている刀を見て中井庄五郎のイメージも一転するものでありました・・。
資料館のある十津川村役場から、十津川沿いを北に行った所に野尻という地があります。非常に広大で山深い十津川村、その一角に石碑が建っていました。
「中井庄五郎生誕之地碑」。
中井庄五郎は幕末ここ野尻に生まれ 居合いの達人であった
若くして京都御所の守衛に当り多くの志士と交わる
坂本龍馬とは親交があり 龍馬暗殺されるやその敵をとらんとして
時に二十一歳であった
文久三年(1863)に上京し十津川郷士による御所警備に参加、その時に多くの尊皇攘夷志士と交わったとされます。
一旦帰郷していた庄五郎は、慶応元年(1865)に再び上京します。
中井庄五郎の伝説として四条通で新撰組と喧嘩になり、沖田・斎藤・永倉と斬り合いになるも無傷であったという逸話が残ります・・。かの三人とケンカになり、刀を交えて無傷で生還するとは、もはや凄腕である事が証明されたような逸話です・・・。
また、慶応二年(1866)には長州の品川弥二郎に依頼され、幕府に通じていたという同藩の村岡伊助を暗殺しました。
寺田屋では龍馬と時勢を論じ合い意気投合。この時まだ19・20歳であった自分に対して、既に志士として首領であった30歳の龍馬が対等に話してくれた龍馬に心酔し、「彼が為ならいつでも死ねる」と周囲に語っていたそうです。
そうした中、慶応三年(1867)11月15日、近江屋にて龍馬が暗殺されました。
龍馬の敵は俺が討つ!
当時「いろは丸事件」で紀州藩から莫大な賠償金を取った龍馬に対し、恨みを抱いていたとされる紀州藩。その黒幕として、紀州藩・三浦休太郎が疑われる中、陸奥宗光らと襲撃計画を立てます。
当時、「お西さん」のお隣の興正寺には紀州藩主・徳川茂承が宿泊していたそうで、近藤勇を呼び三浦の警護を依頼したそうです。
これにより、三浦の警護をしていた新撰組。天満屋での酒宴でも、ガッチリ三浦を警護していました。
慶応三年12月7日、天満屋に斬り込んだ中井庄五郎は新撰組と斬り合い、落命。三浦は重傷を負ったものの、命はとりとめました・・。
当初、龍馬・幕末にハマり始めの頃の私は、十津川がそもそもどこの事なのか、中井庄五郎がどういう人物であったのかをまったく知らず、なんとなく得体の知れない違和感を感じておりました・・。
それが今回、十津川村を訪れ、中井庄五郎生誕之地を訪れ、そして龍馬が庄五郎に送ったとされる刀を見て、この地から京の都を眺望してみた時に、ふと・・ひとつのストーリーが浮かんできました・・。
それはじっくり温めて、いずれUP出来ればと考えております。
それから、中井が「毛むくじゃらだった」という事を聞いたとき、やはり背中に「たてがみが生えていた」と言われる龍馬に、同じ悩みを共有するような親近感もあったのではないか?などとも思えてしまいました・・。
最後に、もうひとつの逸話を。
龍馬暗殺事件の翌日の11月16日、会津の手代木直右衛門から彦根藩の石黒某へ一通の密書が送られていたといいます。
「龍馬を 殺れ。」
会津と彦根は水面下で慶喜の後権(新政府加入)を目論んでいたといいます。そこに立ち塞がっているヤツは坂本龍馬だ!殺れ!
一方で、龍馬暗殺の直前、二条城の慶喜はどういういきさつからか龍馬の名を知ったといいます。
その龍馬が大政奉還支持者の一人であり、反幕志士の中で奔走する非戦論者であり、徳川を残そうとしている人物であることを知ったといいます。
「土州の坂本龍馬には手をつけるな。」
見廻り組や新撰組にそう言い含めるよう、龍馬をよく知る永井玄蕃に下知したといいます。
その翌朝、永井は慶喜の言葉を伝えるべく出仕したところ、机上に昨夜龍馬を暗殺した旨の紙片が踊るような書体で大書きされていたそうです・・・
@奈良2021