うめじろうのええじゃないか!

貧困中年のサバイバル日記

「坂本龍馬暗殺」@龍馬をゆく2006

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岬神社。通称「土佐稲荷」。当時、土佐藩邸内に祀られていた為、そう呼ばれているらしい。2006年当時この神社にボロボロになった黒い龍馬像が祀られていた。
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用心の悪いことだ。
朝早く下宿を出、京のあちこちを飛び回って夜遅く帰って来る龍馬。薩摩の吉井幸輔などは眉をひそめ忠告する。「藩邸へ来い」。「藩邸など窮屈な塀の中で住めるか」「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思い定めて死を恐るるなかれ」これが龍馬の答えである。
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慶応3年10月、徳川慶喜による大政奉還が成り、龍馬は越前福井の松平春獄を新政府に参加させるべく、また三岡八郎を財務担当者として禁錮の中から引っ張り出すべく、旅立つ。11月5日に京に戻った龍馬。相変わらず多忙である。13日昼ごろ、伊東甲子太郎が近江屋を訪ねて来る。伊東はこの3月、新撰組を脱隊し「御陵衛士」という職名に就いている。「新撰組が全力で狙っている」「土佐藩邸にお移りなされるがよかろう」用はその忠告の為であった。無論、龍馬は聞く耳を持たない。
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この伊東、数日後の18日、油小路で新撰組に襲われ落命。佐幕派の狂気は大政奉還後頂点に達している。
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時は11月15日。
この日中岡慎太郎河原町藩邸に福岡藤次を訪ねた。用件は、去年9月の三条大橋における新撰組土佐藩士の乱闘にて捕えられた、宮川助五郎引き取りの件である。
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乱闘というのは三条大橋において、札場に掲げられている「長州人をかくまうべからず」という制札を土州藩士が引き抜こうとしたもので、それを待ち伏せしていた新撰組と乱闘になったものだ。その時のものではないか、とされる三条大橋の刀痕。
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藩邸を訪ねた中岡であったが、福岡が留守であった。藩邸のすぐ裏、というか隣というか、龍馬が滞在していた「近江屋」は土佐藩邸の目と鼻の先である。「龍馬のところにでもいくか」。これが、中岡の運命を決する。

龍馬はいた。
数日前から風邪をひいたらしく、この日、熱が高く土蔵で寝ていた。「土蔵は熱くさいきに、母屋で話そう」
奥八畳の間で中岡と対座。角力の藤吉はふたつ間を隔てた表の間で楊枝削りをしている。そのうち、夜になった。そこへ岡健(岡本健三郎)とほとんど同時に菊屋の峰吉少年がやって来た。
「峰吉っつあん、腹減った」と龍馬は、峰吉に「軍鶏を買って来い」と言った。
これは私の想像だが、この日(11月15日)は龍馬の誕生日。恐らく、龍馬の誕生日を祝うべくいわるゆ誕生パーティーをやろうとしていたのではないだろうか。軍鶏鍋でもやろう、と。
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現在の「鳥新」さん。
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当時の「鳥新」があったであろう付近。
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「鳥彌三」。軍鶏を買いに行ったのはここではないか、という説もある。
軍鶏を買ってこい、と言われた峰吉少年が立ち上がると、これをしおに岡健も引き上げる。峰吉は四条小橋の「鳥新」へ走り軍鶏を注文。ここで、約30分待たされることになる。
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土佐稲荷に戻ろう。当時土佐稲荷土佐藩邸内にあったと言われている。
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この写真の突き当たりが土佐藩邸の裏門に当たろう。そして、土佐稲荷がある。この路地を180度振り返った所に当時「近江屋があったであろう場所」が見える。今の道路の道幅は拡張しているはずだから、ちょうど道路の中央線辺りになるのかも知れない。当時藩邸と言えば、現在における大使館のそれと同様に、他藩の者が自由に出入り出来る所ではない。これだけ土佐藩邸の近くに近江屋があり、不審な者がうろついていれば目立つのは必至だ。しかしこの土佐稲荷は、比較的自由な気風で様々な人が自由に出入りしていたという。つまり、ここで刺客が様子を伺っていたとしても、そう目立たなかったとも考えられる。刺客は、この先から出てゆく峰吉と岡健の姿を見ていたのであろうか・・。
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午後9時過ぎ、数人の武士が近江屋の軒下に立った。
「拙者は十津川郷士、坂本先生御在宅ならばお目にかかりたい」藤吉は名刺を受け取り次ぐ。階段を昇ろうとした。「いる」と刺客はみた。藤吉の後を追い、のぼりつめたところでいきなりその背を斬りさげた。

「ほたえなっ!」(騒ぐな)

龍馬は峰吉が帰って来たものとみた。峰吉は平素、藤吉に戯れて角力の手を教えてもらったりしているものだから、そう思ったのだろう。この声で、刺客達は討つべき相手の所在を知った。雷光の如く、走る。

奥の間に飛び込むなり、一人は龍馬の前頭部を、一人は中岡の後頭部を斬撃した。
龍馬は撃たれてからじ事態を知った。手元には刀がない。床の間にある。それを取ろうとした。素早く背後に身をひねる。この一動作を刺客は見逃さない。二ノ太刀!左肩から背骨にかけて、骨を断つ衝撃を龍馬は受けた。驚くべきことであった。最初の斬撃で既に致命傷を負っている龍馬。にも関わらず、三ノ太刀を鞘ぐるみのまま、刀身を十センチばかりも撥ね飛ばしながら受けている事である。
敵のすさまじさもさることながら、致命傷を受けつつもこの斬撃を受け得る龍馬の気迫は尋常ではない。しかし、勢いで流れた敵の太刀は龍馬の前頭部を更に、斬った。龍馬は崩れた。
「石川、刀はないか」。石川とは中岡の変名「石川清之助」のことである。この期におよんで、まだ変名を使う配慮が出来ている、ということは、まだ意識が明瞭であったことを思わせる。中岡も脇差で応戦していたが、十一ヶ所に傷を受け気絶した。ほどなく息を吹き返した。
この時、ちょうど敵が引き上げるところだったらしい。数日後中岡は息を引き取るが、それまでの介抱されている時に「一人の男は浪曲を謡っていやがった」と言い、「卑怯憎むべし、豪胆愛すべし」と評論していたという。これが、また凄い・・。
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ほどなく龍馬も、よみがえった。
全身血まみれながら、座り直したのだ。行燈を引き寄せ、刀を見入った。
「残念だった・・」
自分の傷を映して見たのか。
「慎ノ字、手がきくか」
中岡は伏せながら、「利く」と答えた。
「人を呼べ」
とでも言いたかったのかも知れないが、龍馬は自分で這い進み、「新助、医者を呼べ」。しかし、その声は既に力失せたものであった。
「慎ノ字、わしは脳をやられている・・」「もう・・いかぬ・・」
そしてそれが龍馬の最期の言葉となった。

「世に生を得るは 事をなすにあり」

そう自分に躾けていた龍馬。天の思し召し、ここにあり。






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