「伏見土佐藩邸跡」碑
塩屋町、南浜町は今でも地図に見受けられます。この藩邸には藩主や側室・腰元らの生活する「御殿」は無かったと説明にありますから、家臣らが町役をしながら交通の要衝であるこの地につめていたのでしょうか
龍馬の「定宿」、寺田屋はほど近く、近江屋もそうでしたがいずれも藩邸に近い宿に身を寄せていたんですね。幕吏に踏み込まれた時、この土佐藩邸方向には伏見奉行所もある為か、薩摩藩邸方面に逃げています。この時念頭に薩摩藩邸があってのことか、その時の流れによるものか、それは解りませんが、いずれにせよ決死の逃亡劇にはシナリオは無かったということでしょうか