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【菊屋峰吉の墓】|鹿野安兵衛墓|百萬遍知恩寺|京都|@龍馬をゆく2021

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「菊屋峰吉」。龍馬ファンなら周知の人物ですね。

当時中岡慎太郎が身を寄せていた京都の寓居土佐藩御用達の書店「菊屋」。そこの息子「菊屋峰吉」こと、鹿野峰吉です。

そして特別幕末に興味が無い方でもこれはさすがに聞いたことがある、「坂本龍馬暗殺」。その、龍馬暗殺時に近江屋で「腹が減った」と龍馬に言われて、軍鶏肉を買いに走った少年が「峰吉っつあん」です。峰吉少年が近江屋に戻ると、既に事切れた血まみれの龍馬が倒れていた、というのが通説です。

その「菊屋峰吉」(鹿野安兵衛)のお墓参りに、今回は墓マイラー記事です。

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京都大学と聞くと、「吉田寮」を連想してしまうのですが・・、そんな京大界隈は、「百萬遍知恩寺」。例の「鴨川デルタ」の右の方です

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マイラー行脚は非常に難しいです・・・。大きな霊苑などあまたのお墓が並んでいますし、一般的に知る名前で暮石に名があるばかりじゃないので・・探すのには大変難儀します・・。時には小一時間以上探し歩き続けて、結局分からずに帰る事も・・・。

それだけに、見つかった時は、あった!(会えた)という感動があるんですよね・・。我ながら、まったく奇特な趣味だと思いますが・・、今のところタイムマシンが無い以上、歴史上の人物にお会いする為には「書」と「墓」しか無いんです。

今回は意外とすんなりと、辿り着くことができました!

「鹿野安兵衛」墓。

合掌ー。

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墓石の側面には、「大正戊午」と刻まれています。大正七年(1918)ということでしょうか。幕末人として「戊午」と聞くとそう、「戊午の密勅」(1858)を連想してしまいますので、ドキっとします・・。

 

 

 

冒頭でも触れましたが、「峰吉少年」と言えば龍馬暗殺時の登場人物の一人です。龍馬が好きだったと言われる軍鶏、その軍鶏鍋でもしよう、と峰吉少年に軍鶏を買いに走らせたことで有名です。現在でも「龍馬祭」において、龍馬の嗜好にちなんで軍鶏鍋をふるまう催しもあり、「峰吉っつあん」に親近感を持つ龍馬ファンの方も多いのではないでしょうか。

また、菊屋を寓居としていた中岡慎太郎との関係も深く、龍馬と中岡が暗殺されたこの日も、中岡慎太郎に言い付けられて錦小路の薩摩藩邸に使いに行っていました。薩摩藩邸宛ての手紙の返事を持って峰吉少年はこの日近江屋に戻って来たのです。そこで龍馬に、腹が減ったから軍鶏を買うてきておーせ、と言われて鳥新に走ったのですね。

同じく中岡から使われ、「峰やん」は餅売りに化けては不動堂村の新撰組屯所付近に、新撰組の様子を偵察しに行っていたりもしたそうです。

龍馬暗殺についてはこれまでも、度々触れて参りましたが、今回も「峰吉っつあん」のお墓参りに関連して、再び考察してみたいと思います。

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ご周知の通り、龍馬暗殺には諸説あり枚挙にいとまがありませんが、巷間、定説とされているのが「見廻り組犯行説」です。これは「会津黒幕説」でもあり、磯田道史先生の説には説得力があります。今のところ私も、「磯田説」を支持するところではあるのですが、一方でお得意の私の妄想癖も留まることを知りません・・苦笑

ちょっといくつかの証言を再び考察してみたいと思います。

異変を聞き、一早く現場に駆け付けた土佐藩士の谷干城は、
・刺客は十津川郷士を名乗った
・対応した(角力の)藤吉は名刺を龍馬のもとへ持っていった
・藤吉は龍馬がいた八畳間で倒れていた
と証言。

一般的に知られている、「拙者、十津川郷士、坂本先生はご在宅かな」というやつですね。刺客は十津川郷士の名刺を出して来訪したというものです。

これに対し、峰吉の証言では
・藤吉は階段下で倒れていた
つまり名刺を龍馬に取り次いでいない、として、谷干城の証言と食い違っています。

更に「見廻り組説」の実行犯の一人、とされる今井信郎の証言では、
・五ツ半頃(21時頃)、松城藩士を名乗って応接を求め、四名が部屋に上がった
としています。「実行犯」の今井は、「松城藩士」を名乗ったと言っているんですね、これまた、まったく話が食い違っています。

谷干城の証言は、事件直後に意識があった中岡慎太郎から聞き取った話という事ですが、意識があったとは言え瀕死の重傷を負った中岡が、そこまで克明に証言が出来るのでしょうか・・。

藤吉が龍馬らがいた八畳間に倒れていた、というのも、巷間伝わる話として龍馬が「ほたえなっ!!」と言ったという点からしても不自然ですね・・。
龍馬が(藤吉と帰ってきた峰吉が相撲等でじゃれ合って騒いでいると思って)「ほたえなっ!!」と叫んだとすれば、それは
・八畳間の外で、龍馬からは見えない所でじゃれ合って騒いでいると思ったから叫んだ
という事ですよね。
つまりバタついていた場所(藤吉が襲われた場所)は八畳間の外であり、龍馬の部屋からは見えない場所であったという事になります。龍馬がいた部屋で藤吉も倒れていたならば、名刺を取り次いで部屋に入った背中を、あるいは取り次いで部屋から出て来た瞬間の藤吉を斬った、という事になるのではないでしょうか。
こうなると、いきなり龍馬の額を斬られた、という事にもなりにくいと思ってしまいます・・。

こう考えると、谷干城の証言は嘘くさく、峰吉の証言に一貫性を感じます。

しかし

ここに、更なる今井信郎の供述が謎を広げるのです・・・

・襲撃現場には書生がいた

・・・!?書生・・??・・・とは、峰吉のこと・・・??

同じく実行犯の一人とされる渡辺篤の証言にも、

・現場に、13、14歳くらいの少年がいたが、机の下に首を突っ込んで怯えていたので、子供だったのでそのまま見逃した

という話が展開されます・・・!?

えっ・・・、現場に少年がいた・・??

これが真実だったとすれば、谷干城の証言も、峰吉の証言も嘘になります。
元見廻り組の二人の証言が嘘なのか、はたまた功名心、もしくは老衰による記憶違いなのか・・・。

晩年の渡辺篤大正4年、その家族・知人を枕頭に呼び「懺悔したい」として、「坂本氏を暗殺したのは自分である」と打ち明けたと言われています。

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ちなみに維新後は、西南戦争で熊本鎮台司令官だった谷干城のはからいで、峰吉は会計軍人として従軍しています。

歴史を書くのは常に「勝者」です。維新の勝者は薩長を中心とする西南雄藩、敗者は徳川幕府、これが世の表面に出ている「常識」です。

しかし、どうでしょうか・・。事はそんなに単純なものでは無く、幾重にも重層的に複雑に絡み合っているように思えてしまうのは、歴史好きのミステリー嗜好のせいでしょうか・・。

 

墓地からは、大文字焼きの山肌が望めました。
そう言えば、この先は白川。白川と言えば中岡慎太郎「陸援隊」です。

龍馬暗殺時、峰吉は白川の陸援隊に知らせに走りましたが、これも何故、目の前の土佐藩邸ではなくわざわざ遠方の白川に行ったのか?との疑問点になっていますが、これは近江屋に既に谷干城が駆け付けているように、河原町土佐藩邸には既に知らせが行っていたということでしょうから、それこそ峰吉は、瀕死の中岡に言われて陸援隊に知らせに走ったのではないでしょうか。白川に走れ、くらいなら、瀕死の中岡が呟けたとしても不思議は感じません。

その、陸援隊の近くのお寺に「峰やん」は眠っています。

 

さて、真相はいかに。

これからも、私の幕末探訪は続きます。