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【南帝陵】長慶天皇伝承地|南北朝|十津川村|@奈良2021

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私の中では「幕末」項に入るのですが、一般的にはまったく幕末では無いので「その他歴史」項に加えましたが、南朝の聖地、奈良県は吉野郡十津川村に祀られる「南帝陵」を訪れた記録です

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国王神社の境内にある「南帝陵」。

国王神社と聞くと、茨城県の坂東市にある平将門終焉の地を思い出します。

 

 

 

 

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鬱蒼とした山の斜面に柵で囲われた墓一基。墓といっても石がひとつ置かれているものです。

ここは南朝第九十八代、長慶天皇を祀るお墓だそうです。

ここにあった説明書きが、句読点を入れていない為か非常に難解で、読んでも全然入ってこない感じを受けます・・・。

長慶天皇は弟の御亀山天皇皇位を譲るも、賊に襲われた」と書いてあるのですが、弟は「御」亀山天皇ではなくて、「後」亀山天皇ですよね??

亀山天皇なら兄は後深草天皇で、兄は持明院統、弟は大覚寺統としていわゆる「南北朝時代」の反立する発端ですよね。これは単に音を別字で表しているだけのことなのか、あるいはあえて「後」を「御」としているのか、なにか隠す意図があってのことか、なにせ南北朝関連ですとついつい疑念を持ってしまうというものです・・・。

ちなみに、亀山天皇と言えば京都の五山の別格として位置付けられる「南禅寺」の創建で知られる天皇ですね。天皇の勅願による創建の為、「別格」なんですね。

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いずれにせよ、賊に襲われた長慶天皇は「もはやこれまで」と、同所の「廻り岩」という場所で自害したそうです。

取り巻きが水葬に付したところ数日後に御首がこの辺りに流れ着き、水底から一条の不思議な光が発せられました。

これを見つけた村人が、この地に丁重に葬り玉石を安置しました。それがこの、「南帝陵」だそうです。

それを現在に至るまで、十津川の人々はずっとお祀りし続けてきている訳ですので、南朝に対する志と言いますか、半端無いものを感じざるを得ません・・!

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更に先ほどの説明書きに書いてある元号が、昔の元号など全て知る由もないのですが、なんだか違和感を覚えたんです・・。「文中二年」(1373年)??「弘和二年」(1382年)??

どうも調べてみると、これは「南朝専用の」元号のようで・・、これもまた無意識のうちに話が全然入って来ない一つの要因だったのかも知れません・・。

なるほど、元号とは我が国の在り様、天皇の国である事を示す超絶重要なものですので、南北朝とも自分の元号が「正しい」かった訳ですね・・・!もちろん、ここに書かれている説明書きは「南朝」のものですので、南朝元号で書かれていた訳です・・!

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南北朝という歴史はもちろん直接幕末では無いものの、歴史は当然繋がっているものでもありますし、歴史ファンとしては非常に興味深く、また重要な時点のひとつだと思っております。今はまるで解っていませんが、これからじっくりと模索していきたい時代のひとつであります。

因みに上記、「後」亀山天皇は、北朝後小松天皇と「明徳の和約」の和議を結び、合一したとされますが、「明徳」を使用していることからも実情は南朝側が折れた形になっているのでは無いでしょうか。そして吉野の山に篭り南朝勢力の復活を狙い・・・。

そして時は江戸時代、かの徳川家康は自ら南朝系の新田義貞の血筋を名乗っていたという噺もあります。そのあたりは謎ですが、家康の孫にあたる水戸光圀(水戸黄門)「大日本史」を編纂し南朝水戸学を布教してゆくのであります・・・・。