道の駅「吉野路大塔」の道路を挟んで向かい側に、「大塔郷土館」があります。
その敷地に「維新胎動の地」という大きな碑がありました。
そうです、吉野は南朝の聖地、幕末の楠公尊崇の機運、南朝復元という観点からもまさに「聖地」。
ご周知、吉村虎太郎らが大和で「天誅組」を挙兵。天辻峠には本陣を置きました。
(上碑は維新歴史公園)
その「維新胎動の地」と碑が立つ同じ敷地内に、「大塔宮護良親王」の騎馬像が置かれていました・・・!
「維新胎動の地由来」
南北朝
鎌倉幕府追討を企てる「大塔宮護良親王」は、元弘元年(1331)元弘の乱が起こると、笠置山に参向して父「後醍醐天皇」を助けたが、笠置山が陥落すると幕府軍の追捕を逃れて、十津川・吉野・熊野等を転々と流浪して必死に反幕勢力の糾合に務めた。
この間大塔村辻堂・殿野に入り、土地の豪族「戸野兵衛」「竹原八郎」をはじめとする村人の手厚い加護を受け諸国に幕府追討の「令旨」を発し、ついに鎌倉討幕の偉業(建武の中興)を成し遂げた
。
維新胎堂の地の碑に書かれていた説明文は上記ですが、ウィキペディアの記載には、令旨を発して兵を集め尊氏討伐の軍を起こした護良親王に対して
これを聞いた後醍醐天皇は「これは、親王の独断でやったことで、朕には預かり知らぬことである」と発言して、護良親王を捕らえて尊氏に引き渡したと述べられている。
と書かれています。
その後護良親王は鎌倉で殺害されたことになっていますが・・
はて・・その真相やいかに・・・。
私が着目するのはここに、いわゆる南北朝時代の話と、それから幕末(天誅組)の話が並立して碑に刻まれている、という点なんですよね・・・。
これって・・・考えようによっては、南北朝と幕末というもののあり様が本質的には同じであることを示唆しているようにも思えてきませんか・・・。
単にこの地にまつわる話として、大塔宮護良親王と天誅組を説明していると思えばそれまでですが、そもそもここが南朝聖地吉野であっての天誅組ですから、当然その繋がりはあるワケです。
何かをぼやかそうとする時、思い切りどーんと表面に出してしまった方が逆に隠れる、という面もあるのかもしれませんが・・・ひるがえってみるとある種の真相がこんなに堂々と表示されているじゃないか・・!という気にもなるものです・・・。
はて、これは私のお得意のいつもの妄想癖でありましょうか・・・。
@奈良2021