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【この付近、近藤勇遭難の地】|新撰組|@京都2021

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この日は伏見を歩きました。JR藤森駅から墨染通りを西へ。

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ありました。

「この付近 近藤勇 遭難の地」碑。

新撰組ファンの方々はご周知、慶応三年(1867)の暮れも押し迫った十二月十八日、近藤勇二条城での軍議からの帰り道、伏見墨染にて御陵衛士らによって馬上にて狙撃されました。

襲撃者は御陵衛士の「残党」、篠原泰之進、阿倍十郎らです。この前月には首領の伊東甲子太郎が油の小路で暗殺されています。

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この場面を再び、永倉新八の「新撰組顛末記」にて振り返ってみたいと思います。

京都二条の城にある永井玄蕃頭から近藤勇にきてくれと使いがきた。
帰りは夜も深便になったので島田魁以下四名とともに乗馬で墨染にさしかかった。
すると松原に伊東甲子太郎の弟鈴木三樹三郎篠原泰之進、阿部十郎、内海二郎などの残党が待ちぶせ、まっさきにすすむ近藤をねらって鉄砲を打ち(撃ち)かけた

「それ、曲者ッ」と、主従あたりをみまわしてるあいだに一丸飛んで近藤の右の肩を射ぬいた。
打たれながらも近藤は馬を飛ばして伏見へ落ちのびる。
のこる石井清之進と勇の僕久吉はあわれや銃弾と乱刃のなかにたおれ、島田魁とほかのものは、ふしぎに命を助かって伏見までひきかえした。

これよりさき隊長をおそう曲者がありと聞いて隊士はおっ取り刀で馳せむかったが、敵は逃げてあらず、石井と久吉の死体が横たわっていたので、これをひきとって伏見の寺へほうむった。

近藤は大坂城で傷をやしなったが、このあいだ副長土方新撰組の采配をとった。

 

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この碑は「京料理清和荘」という料理屋さんの門前に建てられていますが、近藤勇が狙撃されたのは「この付近」であって、ドンピシャでここ、と言う訳ではなさそうです。

個人的にはこの通り(墨染通り)と藤森神社の南門に至る道が一本ずれていますが、そこがいわゆる鍵曲になっていること等を思うと、どちらかと言うとそっち付近?とも思うのですが、まあ、とにかく、この付近で近藤は狙撃されたという訳です。

石碑の横の案内に説明されているのですが、そこには「弾は左肩に命中しました」と記されています。通説では「右肩」ではなかったでしょうか。いろんな方の記事等を見ても、ほぼ「右肩」とされていて、上記永倉翁も「右の肩を射ぬいた」と記されていますので、この説明版は珍しく思いました。

ここは京都への伏見街道、それから大津へ至る大津街道、さらには六地蔵から宇治方面へ向かう街道と、墨染は大きな3つの街道の分岐点として、ここも交通の要衝だった場所のようですね。現在、東海道と中山道の「分岐点」草津宿に居する私にとって、こうした視点もまた、めっちゃ面白く興奮いたします!笑

ところでこの近藤勇の狙撃事件、近藤が永井玄蕃頭に呼ばれて二条城に登城したのは、11月の龍馬暗殺の嫌疑の為、その事情徴収の要件だとばかり思い込んでいました・・。

しかしこの時はその「翌月」。年明け直ぐに鳥羽伏見の戦いが勃発するわけですが、その軍議の要件で登城していたのですね・・・。

ちなみに慶喜が二条城から大坂城へ移ったのが12月12日だったと思いますので、近藤が永井に呼ばれて登城し、その帰り路に狙撃されたのは慶喜大坂城へ下った後、ということになります。