板橋駅を降りるとすぐ前の道に「
新撰組の街
滝野川」という
永倉新八のキャラが描かれたフラッグが掲げられていました
駅からすぐのところに「
新撰組隊長
近藤勇墓所」と大きな看板が掲げられ一目で分かります
ここは寿徳寺の境外墓地ということで、
近藤勇の墓がありました
・・・!?しかしよくみると
近藤勇「宜昌」とありますが、「昌宜」(
まさよし)が本当だったのではありませんか?逆に刻んでしまったのでしょうか・・。
ご周知、
近藤勇は「大久保大和という旧
幕臣」として
流山で官軍に捕えられ、ここ板橋宿に護送されました。旧
幕臣大久保大和として出頭し、時間を稼いでいる間に土方が江戸で助命工作をし血路をひらこう、という思惑虚しく、官軍に京都で近藤を見たことがある、という隊士がおり近藤は正体を見破られてしまいました。そして、ここからほど近い場所にあったであろう一里塚で斬首されたといわれています。当時は墓を建てることすら憚られた為、ひっそりと埋葬されたと言われていますが、その「当初の墓石」とされる石が上写真だそうです。
その後
永倉新八が近藤を弔う墓を建てることを計画し、ここに立派な墓を立てたそうです。その
永倉新八の墓も脇に建てられていました。
ところで墓、墓と言っても今日にように誰それの墓、といったところで必ずしもご当人が眠っていらっしゃるとは限りません。供養塔といった石碑や遺髪塔など広くは様々な「墓」があるでしょう。そして
近藤勇の遺骸も謎に包まれていて、首は京の三条河らに晒された後は行方不明であり、胴体にしても近藤の親戚縁者らが密かに墓守を買収し当初の墓を掘り起こして極秘に持ち帰り手厚く葬った、という話もありやはり謎に包まれています。ご本人が「入っていらっしゃる墓」については
土方歳三も謎であることが有名ですが、函館のある飲食店でその話題に少しだけ触れる機会があったことが思い出されます・・。
毎年、慰霊祭も行われているそうですが、やはりこちらも
新撰組ファンが後を絶たない史跡ポイントとなっているのでしょう。