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【鳥羽伏見の戦い勃発の地】鳥羽伏見戦跡@京都2021

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JR藤森駅から西へ、ここまで歩いて来たのですが・・、結構ありますね・・・。

城南宮道を鴨川の淵まで歩くと、碑がありました。

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「鳥羽伏見戦跡」碑。

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ご周知、鳥羽伏見の戦いが勃発した界隈です

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慶応4年1月3日、鳥羽街道を封鎖していた薩摩藩兵と旧幕府軍接触。街道の通行を求める旧幕府軍に対し、薩摩藩兵は京都の許可が下りるまで待つよう返答。

通行を巡って押し問答が繰り返される中、ついには薩摩藩が発砲。この一発が合図となって戦端が切られました

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城南宮には薩摩藩の野津静雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍と幕府大目付・滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとするのを、薩摩藩兵が阻止して談判の後、ついに薩摩側から発砲した。

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この一弾があたかも合図となって戦端はひらかれ、鳥羽と伏見の両方面で激戦が展開された。幕府軍は約二万、新政府軍は約五千の兵力であったが、新政府軍の大砲・鉄砲などの新式の武器の威力が幕府軍の行く手を阻んだ。

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また新撰組も、近藤勇沖田総司を怪我と病気で欠いていたものの、土方歳三永倉新八以下の隊士達が伏見奉行所詰めからこの戦いに加わっている。
しかし新撰組らの奮闘も虚しく、幕府軍は正月六日ついに大坂城に向けて退陣した。
この一戦を皮切りに、約二年に渡る戊辰戦争が始まったのである。

京都市

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京都市による説明書きに、新撰組の事も触れられている所をみるに、ここを訪れる新撰組ファンの方も多いのではないでしょうか。

近藤は、直前の年末に墨染にて御陵衛士の残党に狙撃されて肩を撃ち抜かれ、沖田は兼ねてからの病気にて共に大坂城へ療養に。土方が新撰組の指揮を執り、奮戦した様子が書かれています。

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説明書きにもあるように、幕府軍は約二万、薩長側は約五千と、新型兵器云々はあれど兵力としては圧倒的だったはずの幕府軍がどうして負けたのか・・・。洋式装備や訓練もされていたとされる幕府軍、兵力も上回っていたにも関わらず何故退陣に至ってしまったのか・・・。

そしてご周知、大坂城慶喜は、自軍を捨てて海路江戸へ帰ってしまいます・・。

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これまでの定説では、最新の兵器、洋式軍体を整えた薩長軍が、ヘタレな幕府軍を打ち負かしたとされていましたが、どうやらひとつの時代が終焉をしたということでしょうか、昨今では色々と定説を覆すものも出てきており興味深いところです。

幕末維新史の不思議さを、ずっと自身追い掛けて来ましたが、いよいよ巷間の説といったものが自分と同じベクトルに向かい出しているようにも感じて、そこにまた不思議さを感じるような気もします・・。

勝てるものを、自ら負けていく旧幕府軍安部公房の「榎本武明」を読んで以来、ずっと考えていた幕府軍の在り様が、時代の移り変わりと共に垣間見えて来た気がいたします・・。一方で、いわゆる薩長史観からの「徳川幕府ダメダメ論」もまた、覆されはじめているようにも思え、非常に優秀で有能な人物が真っ当に評価されていくのは素晴らしい変化だと感じます。

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私の幕末巡りは、まだまだ続きます

@京都2021