旧東海道です。
滋賀に移住して以来、行こう行こうと思っていながら・・いつでも行けるし・・・と思いながら早3年が経過しており・・今回ようやく訪れる事が出来ました・・・。
大津市馬場一丁目の「義仲寺」は膳所駅から坂を下った辺りですが、かつては「粟津ヶ原」と呼ばれていたらしく、琵琶湖に面した景勝地であったそうです。
京阪線の石山駅の次に「粟津」という駅がありますが、この辺り一が広く粟津と呼ばれていたのでしょうか?
琵琶湖に面していたというのも、現在ではやや内陸にありますが、例によって今の湖岸線の道路あたりが海岸線(湖岸)だったのでしょう。まさにその名の通り「湖岸」線、そして「なぎさ通」など名称としてもそれが偲べるというものです。
こちらは源氏の朝日将軍・木曽義仲公の墓所であり、「木曽塚」「木曽寺」などと呼ばれていたそうです。
義仲公は寿永三年(1184)正月二十日の粟津の戦いで、31歳にてこの地で討死されました。
「義仲公」墓。
その後年、見目麗しい尼僧がこの墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養をされていたといいます。
里人がいぶかって問うと、
「われは名も無き女性」と答えるのみ。
この尼こそ、義仲公の側室「巴御前」の後身であったそうです。
「巴塚」。
この草庵は「無名庵」ととなえられ、「巴寺」「木曽塚」「木曽寺」それから「義仲寺」と呼ばれていたそうで、今に至る訳ですね・・・。このことは、鎌倉時代後期の文書に既に見られるそうです。
「木曽八幡社」。
松尾芭蕉がここにしきりに来訪するようになったのは、貞享年間(1684~)のようですが、ここを宿舎としていたそうです。
元禄七年(1694)、芭蕉は大阪の旅窓で逝去されました。
「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当地に運び墓を建てたそうです。
「松尾芭蕉」墓。
合掌ー。
元禄七年十月十二日没。亨年五十一。
遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜川舟に乗せて淀川を上り伏見に。翌十三日の午後に義仲寺に入ったそうです。
十四日には葬儀が執り行われ、門人ら焼香者80人、会葬者は300人余りに及んだと説明されていました。
「芭蕉終焉記」に「木曽塚の右に葬る」と書かれているそうで、まったくその通り、義仲公の墓の右隣にありました。
非常に雰囲気のある「翁堂」には、芭蕉翁坐像が安置されていました。
その天井の絵は、「伊藤若冲筆四季花卉の図」とのことで・・いやはや・・・やはり近畿は歴史が幾重にも連なって残っている・・と改めて驚くばかりです・・。
境内にはいくつもの句碑が建っていました。
俳句のことはよく解りませんが・・・
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」
くらいしか知りません・・・・^^;
ところで、松尾芭蕉と言えば「奥の細道」が有名ですが(私でもその名を知っているくらいですので・・)東北住みの頃もあちこちで芭蕉に「お会い」しましたね・・・。
蚶満寺に中尊寺、それから酒田市の日和山公園でもお会いしました・・・。
いずれも重要な拠点みたいな所が多い印象ですが・・「奥の細道」で一体この人は何をやっていたのでしょうか・・・。
またまた私お得意の、妄想歴史ワールドですが^^;、
当時の日本って、今の私たちが考えているほど全国あちこちをやたらと好き勝手に歩き回れるものでは無かったと思うんですよね・・。
一見、誰も居ないような朴とつとした日常の中でも常に監視の目があって、どこぞこの某がどこさ歩いていた、とか、とくに江戸期なんかは超監視社会だったでしょうから、今のようなIT機器など無い時代に、恐るべき監視情報社会であったと思うんですよ・・・。特に女性に至っては、生まれてから死ぬまでの一生涯、自分の生まれた村からただの一歩も外へ出た事が無い人も大勢いらっしゃったと聞きますから、現代人にはイメージ出来ない社会だったと思うのです。
そんな中、龍馬をはじめとする幕末の志士たちもそうですが、全国中を歩いて移動する、これはつまり「情報」のやりとりに他ならないと思うんですよね。逆に今と違ってIT機器が無いから、人力で伝えるしかない。つまり、情報を伝えて歩く何らかのミッションがあった人なんじゃないでしょうか。「全国各地を歩いて回ることがゆるされていた人」。
何らかのネットワークを結ぶ「仕事」を担っていた・・・。
そのミッションに、東北も取り込む必要があり「奥の細道」に出掛けた。俳諧興行を口実に、大変重要な国レベルの仕事を担っていた大物の一人が、松尾芭蕉なんじゃないでしょうか・・・。
隠密、といわれている話も多いですしね・・。
そんな妄想をしながら訪れた松尾芭蕉の墓、義仲寺。
翁の墓を前にして、東北を思う気分になったことは嬉しいひとときでもありました。
@滋賀2022