由緒正しきおっさんの在り方、「司馬遼太郎を歩く」です。笑
秋田空港に着いた司馬先生は、市内に向かわずタクシーで象潟に向かいます。蚶満寺の住職が、先生の兵隊友達だったんですね。司馬先生と熊谷能忍住職は、昭和18年の学徒出陣で兵隊にとられ、満州で一緒になったそうです。空港のタクシーの運転手さんも大正十年生まれで戦争に行ってる方で、自然、戦時中の話をしながらの車中がまた印象的です。
司馬先生は再開した住職に案内されながら、蚶満寺を歩きます。この山門も通ったことでしょう。江戸時代、この辺は海でした。今では大地が盛り上がって田園の中に島が点在しています。山体崩壊で流山が出来て・・、というくだりは、前出の「奥の細道でソフトでポン!」をご参照ください。笑
そして、出たっ!!
大物隠密、松尾芭蕉!東北各地を遊暦し、一体なにをしていたのでしょうか、この方は!?
芭蕉がこの地に来たのは元禄二年(1689)。芭蕉がこの世を去ってから115年後の文化元年(1804)に、象潟地震?にて大地が盛り上がったというから、芭蕉が来た頃はまさに海だったわけです。当時は島の上にあった蚶満寺に、芭蕉は舟で漕ぎつけました。
「象潟や 雨に西施が ねぶの花」
芭蕉が詠んだ歌ですね。当時の詩歌の世界において、「美女の代表」が西施だったそうです。その「西施像」。
そして蚶満寺の揮毫帳に、小林一茶が訪れた痕跡がある、という。寛政元年(1789)8月の記帳ということで、一茶27歳にあたる。「菊明」と号したらしい。しかし、同時代の俳人で、別の「一茶」もいたらしく、しかも号が「菊明坊」。真偽が定かではない。
「蚶満寺」をウイキペディアで引くと、「神功皇后伝説」というものが書かれており、個人的には非常に気になるところです。神功皇后が三韓征伐の帰路大しけに遭って象潟に漂着し、ちょうどその頃臨月近かった皇后はこの地で無事皇子、のちの応神天皇を産み終えたという「蚶満寺縁起」所載の伝承があると。応神=ホムタワケのミコト、古墳時代?渡来系騎馬民族?もう、このあたりは勉強不足で興味ばかりが先走り、頭の中があらぬ妄想でむちゃむちゃになります・・。いずれにしても、「何か」あるんでしょう、「何か」ある所に芭蕉あり、という気がしてしまいます・・。
最後はちょっと「司馬遼太郎を歩く」から脱線してしまいましたが・・、「司馬史観」ならぬ「司馬視点」で歩く象潟、非常に贅沢な時間です。通常の旅冊子等もいいですけど、ぜひ「司馬遼太郎を歩く」歴史散策も楽しんでみてはいかがでしょうか。