こんばんわ
由緒正しきおっさんの休日の在り様、「司馬遼太郎をゆく」です。
今日は「街道をゆく」~湖西のみち、そして~韓のくに紀行を合わせ読んでこそ興奮至極な、滋賀県は蒲生郡日野町「鬼室神社」です。
司馬先生は「街道をゆく」執筆にあたり、滋賀県は湖西のみちから始めようと1970年に近江を訪れます。湖西には古代、大陸から渡来した人々が多く住んでいたことから、翌年そのルーツを探訪する旅へと先生は韓国を訪れました。
帰国した司馬先生の下に、思いがけない知らせが届きます。
「滅亡した百済の王族の墓が近江にある」
「鬼室集斯(きしつしゅうし)」という滅亡した百済の王族の生き残りの墓が近江にある・・・?
と聞いて、先生はにわかに信じられなかったと言います・・。
それがまさしくここ、日野町にある「鬼室神社」であります・・!
場所は人気観光スポット「ブルーメの丘」を越え、トンネルを抜けた山谷に開かれた田んぼの中に、ぽつりとありました。
「ブルーメの丘」を訪れる人は多いでしょうが、ここを訪れる人はほとんどいないでしょう・・・笑
鬼室集斯という百済国の王族の生き残りの墓が、近江の山村にある。
その墓石が神体となって神社のカタチをとり、村人によって千数百年という長い歳月ずっと保存されているのです・・・。
百坪足らずの境内に、ささやかな祠が立っている
社殿は瓦葺で、社殿というより神楽をあげる舞台のようである
そう司馬先生が描写する通り、壁の取り払われた社殿は神楽が舞う舞台のようで独特の雰囲気を醸し出していました・・・。
その背後に神殿が小さく置かれている
置かれている、というしかないほどの
小さな石造である。
と、描写される通りの小さな神殿。花崗岩で造られているようです
鬼室集斯は日本に亡命し、時の天智天皇から「文の司の守」という、今で言う文部大臣にあたる役職を与えられたといいます。
村では現在でも「学問の神」として祀られており、村人たちは4年毎に神主役となる家を決め、祭祀の度に鬼室集斯にお供え物を捧げるそうです。
鬼室集斯と共に、七百人の百済人がこの地にやって来て以来、1300年以上村人たちによって受け継がれてきた
日本の水軍が白村江の戦いで壊滅的打撃を受け、百済の独立運動が敗北したとき
日本軍は百済の人たちを大量に日本に亡命させるべく努力をした
さらには当時の天智政権は国をあげて、彼ら王国の市民を受け入れるべく国を解放した
日本歴史の誇るべき点がいくつかあるとすれば
この事例を第一頭にすべきかも知れない
いわゆる「司馬史観」と世間に呼ばれていますが、いつも思うことは現代の政治的観点からアジアの歴史を見るのとは訳が違う、と思うのです。それと混同していては、歴史が浮き彫りにはなってこない、と。
動力機関など持ち得なかった古代から、驚くほど古代人は海を渡り往き来していた、と私は考えています。
大陸から列島に多くの古代人が渡来していたし、逆にまた、列島から大陸にも多くが渡った。
今の私たちが考えているよりも遥かに古から、政略的にそれをやぅていた、と私は考えています。
そうすることよって、国の体を護ってきたんだと思います。
現代では(特に昨今では)都合が悪い話になってしまいがちなので、誰もが蓋を開けたがらない、という事でしょうが・・・
いつものうめじろうの妄想ワンダー史観ですが・・・
元々列島の海洋民族が、国の体を護る為に大陸の騎馬民族を容れたんだと思います・・・。ここでは「民族」と書きましたが、現代で言う「民族」などという概念はそもそも無かったかも知れません。
いわゆる「欠史八代」とは、そこに着地する「準備期間」だったのではないでしょうか。今で言えば「留学」。こちらから、意図的に。政略的に。
これと相似象なのが、スパンは全然違うものの、幕末における「安政の大獄」ではなかろうかと。
・・・・。
またまた、とりとめも無くなってしまいますので、今回はこの辺りで・・・。
本日もお付き合い、ありがとうございました