由緒正しきオヤジの愉しみ?として、
司馬遼太郎先生の世界を歩く、というものがあります(笑)今回は司馬先生の「
街道をゆく」秋田編を歩きました。
秋田市にある新屋町、
雄物川河口近くに「栗田町」があります。
佐竹家家中の「栗田定之丞」(1767-1827)。「御物書」という今で言う書記・記録係で、「加勢」と呼ばれる、これまた今で言うところの
非正規社員という身分でした。ロシア船をはじめとする異国船が出没する時代、
田沼意次→
松平定信という私の大好きな時代のひとつなのですが、
松平定信は寛政3年(1791)、海岸をもつ諸藩に警備の強化を命じます。これを受け、
秋田県浜田中村字に
秋田藩は見張り
番所をたてました。栗田定之丞は寛政8年にこの仕事をします。
栗田はその時、飛砂の被害を目の当たりにしました。村が飛砂で埋もれてしまう程だったそうです。その後、「砂留役」を
秋田県北部の山本郡で任じたそうです。
栗田はこの飛砂の抑制に心血を注ぎ、新屋や
能代の海岸に砂防林を作りました。
栗田亡き後、村人達は感謝し、神社を建立したそうです
それがここ、新屋にある「栗田神社」というわけですね
相変わらず、こうした所には誰もいません(苦笑)。犬を連れて散歩したであろう、足跡が積雪に刻まれているだけです。
神社のみならず、町名にもなっている「栗田」に驚きました。
司馬遼太郎先生は以下のように記しています。
「いすれにしても、秋田における最大の先人といえるのではないか」