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御花畑御屋敷跡(薩長同盟所縁之地)@龍馬をゆく2020

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市営地下鉄鞍馬口駅を垂直に横切る鞍馬口通り。この、地図上で左右に横切るラインが、江戸期の京都の北端だったそうで、「これより洛中」な場所なのであります。

この場所に、近衛家別邸(御花畑御屋敷)が営まれ、幕末には薩摩島津家が使用していました。

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古民家風なカフェ?でしょうか、そのお店の前に碑が建っていました。

近衛家別邸 御花畑御屋敷跡」

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そして島津家が使用していたということで、幕末ビッグネームの一人、小松帯刀寓居跡でもあるのです

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この薩の小松帯刀。幕末における物語等では西郷、龍馬、桂小五郎らに圧されてある種「脇役」なイメージですが、実際には幕末の最前線で事を大きく動かした大人物の一人である、というのが私の認識です。

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第二次征長時に薩摩名義で買った銃を長州に斡旋した話は有名ですが、これを斡旋したのも小松ですし、冷静沈着、優れた能吏としてのイメージが強い人です。馬術の達人でもあり、京で夜陰、馬に乗って藩邸に帰る時などには、馬上提灯がいささかも揺れず、それを見た人は「あれは薩摩の小松帯刀だ」と解った、という逸話もあるようです。

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さて、その小松。京の藩邸から大久保が小松に送った書簡に、「龍馬」の文字もあるようですが、神戸海軍操練所閉鎖により行き場を失った龍馬らを、小松は薩摩に引き取ります。恐らく小松は、顔の広い龍馬を「薩摩の外交」に有効利用しよう、と考えていたのではないでしょうか。幕末の薩摩と言えば島津斉彬殖産興業、こうした志を持つ小松は貿易等にも大きなビジョンがあったのでしょう、同じく「世界の海援隊」を心に宿す龍馬には、共通の理念を感じていたのかも知れません。「雄藩連合」という小松と龍馬の共通項。しかし、龍馬の腹の中では、徳川すらまとまった「日本のカタチ」を考えていたと思われるので、そこまでは共通項では無かったのかも知れません。

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薩長同盟所縁之地」碑。ご周知、薩長同盟。物語では、プライドが乗り越えられず交渉決裂寸前の薩長両藩、西郷に「長州がかわいそうじゃろ!!」と詰め寄る龍馬の決死の説得で、同盟成立に至りますが、実情は冷静沈着に小松が骨を折っていたのであろうと思います。

しかしながらこの薩長同盟、実際には薩と長でかなりの温度差があったのでは無いのでしょうか?長州側としては、秘密軍事同盟であって、明文化して欲しい、ところが薩摩側としてはそこまでのものとは考えていない、従って明文化せずに口だけにしておいた、と。

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長州にしてみれば、要するに「口約束」だけのものであった為、確約が欲しくて、桂小五郎は龍馬に書簡を出し、「裏書き」を求めたということではないでしょうか。

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いずれにせよ、慶応二年の薩長同盟に先だって、上洛した桂小五郎一行がここに宿泊したそうです。薩長同盟が締結された場所として、二本松の薩摩藩邸と共に有力地として「所縁之地」となっています。

 

 

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