2018年6月にオープンしたという「ホテルリソル京都河原町三条」。
ここに、【後藤象二郎寓居之跡】碑が建っていました!
ここはかつて土佐藩出入りの醤油商「壺屋」があった場所だそうです!
ご周知、高瀬川沿いの土佐藩邸からもほど近いこの場所に幕末、後藤象二郎が京都滞在時に寄寓していたということで、それを示す碑が建っていました。
今回の【龍馬をゆく~京都編】は幕末京都の「壺屋」、後藤象二郎寓居跡です!
醤油商「壺屋」は、播磨の老舗醤油商が京都に設けた問屋だそうで、京料理に欠かせない淡口醤油の醸造をしていたそうです。
播磨の龍野から大坂に運搬された醤油樽は、淀川から高瀬舟にて伏見を経由し京都市中まで運搬されました。
醤油樽の展示もされていました。
壺屋は「ヤマツ醤油」と号して山に「ツ」の商標を用いていたようです。
ちなみに、幕末の醤油商がどのような感じだったのかが分かる「澤井醤油本店」さんの様子が↓です
で、ホテルの入口を入ったその右手に【後藤象二郎寓居跡記念ギャラリー】が設置されていました!
なんと・・これはすごい・・!
こんなフツーのホテル内にこのような幕末に関する展示がされていたとは・・・!
ギャラリーが設置され、後藤象二郎の生い立ちや坂本龍馬とのエピソード、幕末当時のこの界隈のジオラマまで設置されさながら小博物館!
これは知りませんでしたね~・・・ファンにはたまりません・・!
ここは宿泊客のみならず、一般にも9:00~20:00に解放されていて自由に見学させていただけるということで、非常に嬉しいギャラリーです!
これがまた・・非常に見応えがありましてね・・!
説明書きも含めて非常に丁寧に説明されていて、リアルなジオラマも展開されていて現在の地図と照らし合わせて見るに、非常によく解るんです・・!
地図好きとしてはずう~っと見ていられますね~笑
当時はこの界隈、高瀬川を通って運ばれた物資を積み下ろしする為に、入江として「舟入」がありました。
二条に「一之舟入」が現存しているかと思いますが、四条の「九之舟入」まで当時は七カ所の舟入がありそれぞれの舟入には商家が軒を並べていました。
(「九之舟入」なのに七カ所?というのが不明ですが・・)
水運が衰退し、今では一之舟入以外は全部埋め立てられてしまいましたが、幕末当時の「壺屋」は「五之舟入」に面していたそうです。
壺屋の店先に後藤象二郎がいますね。
写真館で写真撮影しているスタイルです。笑
その対面にいるのが龍馬!
こちらも何故か、写真撮影しています。笑
この「五之舟入」の位置関係はこうです↓
今のクロスホテルの辺りは舟入だったんですね。
【ヤフートラベル】取り扱い施設数が約17000施設!!国内最大級宿泊予約サイト
龍馬がいるのがご周知、海援隊京都本部「酢屋」です。
木材商の酢屋と五之舟入を挟んだ対岸が後藤象二郎が滞在していた「壺屋」だったんですね!なるほど~!
ジオラマと地図は南北が逆転した位置関係ですが、
赤が後藤象二郎(壺屋)、青が龍馬(酢屋)です!
いや~、面白い・・!(私だけ・・?笑)
後藤象二郎が当時壺屋に滞在していたことは伝承の他いくつかの文献でも確認出来るそうで、酢屋の当主「中川嘉兵衛」や書店の「菊屋峯吉」からの聞き取り文献にも「河原町三条下ル東入醤油商壺屋」とあるそうです。
また、壺屋は五之舟入と、河原町通りの双方に面していましたが、後藤が寄寓していたのは五之入船に面した離れの方だったということで、まさに対岸酢屋の龍馬と面していたということになりますね。
昭和初期には当時の壺屋跡の古写真も残っていて、五之舟入は埋め立てられてはいるものの、今以上に当時が偲ばれます。
って、いうかこんなホテルの一角で(失礼!)見ごたえあり過ぎの史料だと思うのは私だけでしょうか・・!笑
京都における後藤象二郎と龍馬の寓居のひとつの関係性を見てきましたが、このような展示を見るといかにも象二郎と龍馬が京都にて近所に起居していたように思えてしまいますが、
そもそも二人が初めて出会ったのは慶応3年(1867)1月の長崎は「清風亭」です。世に言う「清風亭会談」。
同年11月15日にご周知、龍馬は暗殺により落命しますから、初めて会ってから僅か10ヶ月程度という短い関係でありました。
後藤象二郎は土佐藩の参政であり、龍馬は言わば叔父の吉田東洋を暗殺した土佐勤王党の首領・・。
一方、龍馬からしたら後藤は武市瑞山をはじめとする土佐勤王党の同志を弾圧し処刑した敵でありお互いに因縁深い相手ということになります・・。
物語では一触即発の描写がひとつの見所にもなる場面ですが、結果的に二人は協力し大政奉還へ向けて奔走しました。
説明書きには「もともと象二郎と龍馬は航海通商に邁進する共通項があった」とあり意気投合したとありましたが、私が思うにはそれプラス、アンチ武力革命と徳川の温存という点でも一致したのではないかと思っています。
物語でスペシャルな人気を博し、幕末のスーパースターになった「龍馬」。
その影響が巨大ゆえ、龍馬が薩長をまとめ上げ、長年の栄華の上にあぐらをかき悪政をしき腑抜けになった徳川をやっつけて新しい世を、ニッポンの夜明けを導いた!というイメージが強いと思いますが・・
私的には龍馬は「徳川」です。
と・・言うとまた誤解を招きかねませんが・・^^;
幕末動乱期を通じて、当初こそ尊王攘夷・勤皇=討徳川だったかも知れませんが、脱藩しいわゆる世間を自身で見聞する中で世の中を知ったのではないでしょうか・・。
一見破天荒に見える性格も、その中身は実は非常にリアリストでもあり、議より利という面にも表れていると思います。
山内家・土佐藩の後藤にしてみれば恩義のある徳川を「ぶっ潰す」とは言える訳が無かったでしょうし・・潰すどころか何とかして温存させたい・・・新しい世で薩長が権力を握ってゆく中でどうしても薩長に通じている龍馬の力が欲しい・・
龍馬は龍馬で、なんだかんだ言ったところで故郷の「土佐」大事は当たり前ですから・・また「個人事業主」としても「大企業」土佐藩の後ろ盾はとてつもなくデカいものでありましょう・・。
なにより両者とも、大政奉還で革命をソフトランディングさせると同時に徳川を温存させたい。
ここで完全に一致を見たのではないでしょうか。
その点でお互いに、大政奉還に命を掛けるという点で「同志」だったんだと思います。
だから過去の遺恨を超えて、手を結んだ。
龍馬はその書簡からも後藤を信頼している様子が見てとれます。
長府の三吉慎蔵宛の手紙にも後藤の事を「見所のある人間」と評価していますし、また別の手紙には「後藤とは天下の苦楽をともにしております」などと書き、
有名な乙女姉さん宛には慶応3年6月24日の手紙にて
「後藤は実に立派です。土佐の同志の中では魂も一番ではなかろうかと思っています」と綴っています。
非常に高く評価し、信頼している様子がうかがえますね。
これは壺屋に象二郎が寄寓し、龍馬が酢屋に寄寓している「第1期」の頃です。
この頃に龍馬は「船中八策」を後藤に示したとされていますが、もしかしたらこの「酢屋」⇔「壺屋」間で歴史が展開していたのかも知れません・・!
(そう考えると鳥肌モンです・・・!)
その後、二人は「イカルス号事件」などの関連もあり京を離れます。土佐→長崎へ。
再び二人が京都に戻ってきたのは10月。大政奉還の目前ですね・・。これが後藤と龍馬の京都での「第2期」。
このタイミングで龍馬は、尾崎三良と共に酢屋を避けて「近江屋」へ居を移したそうですが・・・同時期に後藤も壺屋から土佐藩邸に居を移していたそうなんです・・。
ここから、もしかしたら龍馬が近江屋に居を移したひとつの理由として、後藤がいる土佐藩邸に近いところへ移った・・?こともあるかも知れません・・!
これは私自身、新たな気付きでありました・・!
いや~・・・面白いですねえ~~!!(私だけかな・・^^;笑)
このギャラリーの一角だけで、どんだけでも妄想が噴出してきます^^;!
156年前の「ここで」龍馬と後藤がヤバい会談を重ねていたかと妄想すると・・・京都幕末ワールドに心がトリップしてしまいます・・
いや~・・・・楽しいですね~!!笑
と、いうことでまたまたキリが無いので今回はこの辺で・・^^;
お付き合い、どうもありがとうございました。
私の幕末の旅は、まだまだ続きます(^^)
@京都2023