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大仏南門「土佐志士寓居跡」@龍馬をゆく2020

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この界隈、有名な三十三間堂の近隣にて、南大門の現在の塩小路通りになります。
かつて豊臣政権が、文禄年から造営した大仏殿方広寺があった場所で、当時は相当広大な敷地面積であったそうです。京博や、三十三間堂、「血天井」で有名な養源院などもその境内に含まれていたといいます。上写真のちょうど真後ろ側が、養源院です。

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その「大仏」の南限が南大門で、それに続く築地塀が「太閤塀」です。三十三間堂を見学すると、碑と共に説明されている「太閤塀」ですが、この界隈に幕末、土佐の志士たちが住んでいました。

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「此付近 坂本龍馬 北添佶摩など 土佐志士寓居跡」碑

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碑の脇にも、大仏(方広寺)境内南限の旨、記されています。
おりょうの聞書きによりますと、

京都大仏南の門、今熊の道、河原屋五兵衛の隠居処を借りて
表札に「水口加藤の家人住所」と記して
しばらく世のありさまを窺っておりました

その隠居処へ出入りする人の名をあげますと
才谷梅太郎中岡慎太郎、本山七郎、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(近藤長次郎か?)、菅野覚兵衛、池内蔵太、平安佐輔、山本甚馬、吉井玄蕃、早瀬某等で、この時分には、まだ海援隊を編成しなかったのです

会津の奴らは絶えず眼を八方に配って、浪人の詮議が厳しいものですから、右の人々は安閑と大仏にいるわけにはゆきません

とのことで、「ちょっと来たら処をかえてしまった」そうです
つまりは、京都における土佐浪士のアジトのひとつだったようですね。

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元々、おりょうの母、お貞と妹の君江がここで賄いをしていたことから、龍馬とおりょうはここで出逢ったようで、上記、「聞書き」で語る所となります。
ご周知、物語ではおりょうの実家が火事になり、そこへ出くわした龍馬が助けに入る、というところから出逢い、その後河原町の書店「菊屋」で身の上話をする事になっていますが、実情はもしかしたら、この「大仏」で色々とお互いの身の上話をしていたのかも知れませんね。
そして、かの有名な幕末の大事件、「池田屋」北添佶摩望月亀弥太らが闘死。龍馬はこの事件の直前に江戸に下っており、京にはいませんでしたが、元治元年六月五日、池田屋事件の際北添ら土佐浪士のアジトだったことにより、ここにも京都守護職などの役人が踏み込んで来たそうです。その際にはお貞や、君江が連行されましたが、その後釈放されたということです。
翌月七月には「禁門ノ変」というまさに激動の元治元年、池田屋、禁門ノ変の後の八月に、龍馬とおりょうは内祝言を青蓮院の旧境内で挙げたという流れになります