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「浪人のアジト」【方広寺大仏殿跡】@龍馬をゆく2022

おりょうがその晩年、語ったとされる「聞き書き」。

そこに土佐の浪人達が潜伏していた「アジト」の話として、「大仏」が出て来ます。

「大仏」とは、かつて京の都に存在した方広寺の大仏の事であり、その周辺地域のことを単に「大仏」と呼んでいたんだと思います。

アジトに関しては以前UPしたログを添付させていただきます。

a-jyanaika.hatenablog.com

その方広寺の大仏殿の跡地を訪れました。

豊国神社の背中?側、後方にあります。京都国立博物館の「裏手」とも言える場所で、最近ではめっきり京博通いのワタクシですので・・「いつもの」場所な感じです・・笑

 

 

 

豊国神社は秀吉が亡くなった慶長三年(1598)の翌年、方広寺後方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、廟所が建立されたのに始まるといいます。着工時はまだ秀吉の死は伏せられていた為、大仏の鎮守社とされていたそうです。

神社の前にはしっかりと、秀吉の仏像が鎮座していました。

秀吉は自身を「新八幡神」として祀るよう遺言したと言われますが、朝廷から与えられたのは「豊国大明神」でした。

この辺りは私は勉強不足ですが、「明神」という号は吉田神道系ですよね?これに対して徳川家康は「権現」、これは山王一実神道系ですよね。このあたりの対立軸というか、またそこに介入してくる耶蘇(キリスト教)との関連を読み解く事が戦国~江戸を理解する要素のひとつ、だと思っています。

これに接した時、秀吉が「新」八幡として祀れと言ったのは、これまでの八幡の在り様を否定しているのか?などとも思ってしまいました・・。いやいや・・秀吉公・・ヤツらが一方的に来たのでは無く、こちらから戦略的に行って、そして来させた、のかも知れませんよ・・・。

幕末の浪人から外れてしまいました・・・。

その「大仏殿跡」。

大仏殿跡緑地。

かつてこの地には、豊臣秀吉が奈良東大寺にならって創建し、その後秀頼が再建した方広寺の大仏殿が、偉容を誇って建っていました。

現在の緑地はその中央部にあたり、2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施されました。

調査の結果大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約90m東西約55mという、現在の東大寺の大仏殿をしのぐ壮大さであったことがあらためて確認されました。発見された遺構は地下に埋め戻して大切に保存し、小舗石や板石などで位置を地表に明示しています。

 

ちなみにこの「方広寺」とは創建当時から江戸初期にかけての文献にはその名はまったく現れないそうです。

方広寺」の命名の由来は不明との事ですが、一説によると東大寺の重要な法会「方広会」に因んだものだと言われています。また、豊臣秀吉の「豊公」に因んでいるという説もあるようです。

ここにかつて19mにも及ぶ大仏が鎮座していたとは・・今では想像も出来ません・・・。

しかしこの大仏、造立の度に損壊を繰り返した「悲劇の大仏」であったようで、慶長伏見地震、寛文近江若狭自身、寛政10年の落雷、火災、昭和の失火による火災・・・と立て続けに被害に見舞われます・・。

まさに「地震・雷・家事・(親父)」状態ですね・・・。

龍馬とおりょうの頃の大仏は、4代目の大仏であり3代目の大仏殿であったと思いますが、はたしてここを訪れていたのでしょうか。

しかし「最後の」大仏は、昭和48年にまで存在していたというのにむしろ驚くといいますか・・・という事は我々の父母世代、おじいちゃんおばあちゃんは見た事ある人もいらしたワケですよね・・。

 

↓参考)京都市消防局のHPに、昭和48年の火災の記事が載っていました

www.city.kyoto.lg.jp