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養源院「血天井」@京都2020

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先月から、ちらほらと、自身のライフワークとも位置付ける歴史散策を、再開したワケでありますけれども、京の都におけるあの、外国語飛び交う喧騒はどこへやら、こと私個人的には非常に落ち着いて散策が出来るという意味においては、非常に歩きやすい状況があるわけです

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そうした私の「幕末巡り」はちょっとひと休みいたしまして、今回は「血天井」で有名な「養源院」を訪れました

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京都には「血天井」のある寺院がいくつかあるようですが、無論、私にはそうした知識は皆無で、「三十三間堂の近くに血天井がある」と聞くに及んで足を運んでみました

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元々は天台宗の寺院で(現在は浄土真宗)、豊臣秀吉の側室淀殿が父の浅井長政の菩提を弔う為に文禄の頃に建立されたそうです。

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火災で焼失してしまった後、淀殿の妹、お江によって元和七年(1621)に再建されました。その際に、伏見城の戦い(1600)で自害した徳川の武士の血で染まった廊下の板を使用して、本堂の廊下の天井に用いられて建てられたのです。

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お江が再建すると言っても、徳川将軍の正室が豊臣家が建てた寺院を再建する、というのは難しい問題がある為、そこでお江は幕府方への説得材料として、「伏見城の戦いで自害した徳川武士の供養」を再建の条件として願い出たそうです。
この提案が功を奏し、幕府の公的事業としてではなく、お江の私的事業という名目で、血天井を用いる条件下で養源院の再建が叶ったようです。

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本堂に入り、俵屋宗達の杉戸絵、白像やら麒麟やらを見学していると、ご住職が現れご説明くださいました。私以外誰もいない為か、もしくはそうしたシステムになっているのかは解りませんが、大変ご親切に説明くださり、有り難かったです。
そのご説明の中で、鳥居元忠大将が果てた痕がこちらと言われています、という箇所には、自ら腹を突き、片足を曲げたまま床に倒れた姿とおぼしき血痕が残されておりました。その他にも、見れば見る程にキリが無く、おびただしい数の血痕が、特に板に圧したような「手形」には強烈なインパクトがあり、さらに力尽きる刹那、力が抜けてゆく過程で引いたであろう指の痕・・、これには個人的に脳裏がフラッシュバックするような感覚に見舞われました・・。
人が死ぬ。それも自分で・・・。お家の為に自分で死んでしまう、とは・・、一体なんなんだろう・・と、現代人の我々にはおよそわからない次元にあるような気すらします・・。いくら頭で理屈として「わかっていて」も、それは決してわかっていることにはならないのでしょう・・。ひとつだけ確実なことは、そうした我々の祖先の「命」のもとに今、自分たちはいる。生かさせてもらっている。先人たちの血が付いた、天井を見上げている。
自分でもよく解りませんが、その血天井を見上げながら、とにかく生かされているうちは、しっかりと生きるのだ、というおかしな決意みたいなものが、己の中に脈々と沸きおこってきました。先人たちの血を見て、己の生を律するような気持ち。

 

合掌ー。

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