うめじろうのええじゃないか!

幕末巡りと食べ歩き、時々うめじ論

坂本龍馬と北海道@龍馬をゆく2009

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元治元年(1864)6月17日の勝海舟の日記に注目してみました。
坂本龍馬下東、黒龍丸にて来る。聞く、京摂の過激輩数十人、皆蝦夷地開発通商、為国家奮発す。此輩黒龍船にて神戸より乗廻すべく、此義御所並に水泉公もご承知なり」とあり、坂本龍馬蝦夷地へ行くことを御所も老中水野和泉守忠精も了承していたということが書いてあります。この前年の文久3年(1863)年に龍馬は、土佐脱藩北添佶麿、能勢達太郎、小松小太郎(あるいは安岡斧太の4人説もある)を蝦夷地視察に派遣し越前敦賀港から箱館に向けて出帆しています。北添らが戻ると龍馬は京における不満分子の浪人輩を集め、そのエネルギーを蝦夷地開拓に活かそうと動いていたのです。このエネルギーと資金を元手に貿易をやろう、と考えていたのかも知れません。蝦夷地の広大で未開な資源を知るに、龍馬はおそらく底知れぬ魅力を感じたはずです。
しかし・・、黒龍丸で江戸に着いたこの日、龍馬は京における「池田屋事件」を耳にした日、とも言われており、事件の死者には海軍塾の望月亀弥太蝦夷地視察に派遣した北添も含まれていました。北添らは残念ながら龍馬の描く「蝦夷地という夢」は理解出来きなかったのでしょう、京の勤皇集団に身を投じ命を散らしてしまったのです。結局、幕府転覆を狙った過激浪士の中に海軍塾塾生がいた、と知れたことから勝も失脚するに至り慶応元年、神戸海軍操練所も廃止になってしまいました。
その後ご周知の通り、慶応3年に龍馬は暗殺されてしまいます。その暗殺の9か月前、龍馬は長州藩士の印藤宛に手紙を書いていますが、その一節に次のようなものがあります。
「新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出」
物語の中で龍馬は、維新後は自らは新政府には出仕せず、「世界の海援隊でもやるきに」という名場面があります。蝦夷地開拓への想いを綴った手紙を読んでいると、世界を股にかけた貿易の舞台を北海道に置いていたのではないかと思えてしまうのです。
「土佐にあだたぬ奴」と武市半平太に言わせたスケールのでかい龍馬、そんな龍馬をも魅了する北海道はやはりケタハズレの魅力を有する別天地なのです。
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