「お山」はいつ訪れても、独特の空気感があります・・・。
今やすっかり「身近」になってしまった比叡山、どう表現してよいのか解らないのですが・・・日常に迷い、疲れてしまった時にここを訪れると、人間本来の穏やかな気持ちで生きてりゃいいんだよ、といった気持にさせてくれるというか・・・。
なんて言いましょう・・・昔、幼少の頃の夏休みの早朝、あの頃は真夏と言えども早朝にはひんやりとした露感というか、どこか高原のような湿気があったような気がして・・・凛とした肌寒さみたいなものを感じたものですが、なにかそんな気分を思い起こしてくれる気がする場所なのであります。
そして、まだ壊れていなかった家庭、世間、安心感に溢れた中で育まれる幸せを子供心に感じ、息をするとなにかくすぐったいような、そんな空気の「におい」があった気がします・・・。
そこから、一瞬にして時が流れ、自身の感覚的には家庭も世間も、時代と共に「壊れて」いってしまいました・・・。
あの頃、「くすぐったい呼吸」をしながら信じていたあらゆるものは、無くなってしまいました。親父の背中にガッチリとしがみ付きながら泳いだあの海も、太陽の陽射しも、何もかもが。
人は皆、幾重にも重なるようにして存在しているいくつもの「次元」に生きているような気がします。同じ時代、同じ時を生きているようで、そうでは無い。だから孤独になって絶望もしてしまうし、皆と同じ次元で分かち合えたと思えれば、無限の勇気が沸いて来て、どれだけでも前へ進んでいける気にもなる。
そしてその「次元」の移り変わりは、まったく自分の意思で好きな所へ行けやせず、潮の流れに流される如く、どんなに手足を動かしたとしても思い通りの場所へは行けない、そんな厄介さがあるように思えるのです・・。
生きる世界が別の次元に変わっても、それもにわかには解らずに、数年後に「なにか変だな」と思って初めて、ああそうか・・もはやあの頃の世界からは脱してしまったのだな・・と気付く、そんな風に感じるのです。
「お山」に来ると、そんな現在の置かれた次元から脱っする事が出来る、心地の良い、自分が望む次元で呼吸が出来る、そんな感覚に私はなるのです。
まったく不思議な場所であります。
さて今回は、伝教大師の御廟がある「浄土院」の記録です。
ちょうど東塔地域と、西塔地域の境目に位置しており、所属としては東塔になるそうです。
私は西塔から歩いて来ましたが、山道をうねって歩き浄土院に到着しました。
「浄土院」。
五十六歳で入寂された伝教大師の遺骸を、慈覚大師こと円仁がここに安置した場所です。
現在でも12年籠山の僧侶が毎日、生身の大師に仕えるごとく奉仕しているそうです。
伝教大師、最澄については以前も触れましたが、平安仏教は天台の最澄と真言の空海によってひらかれました。
南都は「小乗」、天台は「大乗」。(乗とは教義体系、乗り物の意で船に例えた)
「小乗」は小さな舟なので、乗れるものは限られてきますが、「大乗」は一切衆生が乗れる大船だそうです。
つまりは「草木も土も洩れなく成仏できる」という平等思想。これには、今日に至る日本の感性の基盤を感じることが出来るものだと思います。
ひるがえって言えば、この世は平等では無い、ということに他ならないと思います。ではあの世はどうなんでしょうか?これは永遠の謎であります。
手を合わせ、浄土院を辞しました。
叡山の空気は、人が織りなす幾重にも重なる次元のひとつひとつを見通しているような気がして、私は緊張と安心が織り交じった気分になるのでした・・・。
@滋賀2020