うめじろうのええじゃないか!

幕末巡りと食べ歩き、時々うめじ論

「証拠の阿弥陀さま」勝林院@京都2020

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♪京都~大原三千院
という唄があるようですが、その三千院を通り越して更に奥へ進んだ所に、「勝林院」があります。ご周知、「大原問答」で有名なお寺です。
今回私は、その宿坊であったという隣接する「宝泉院」の血天井を見学に訪れまして、そのついでに、お隣のお寺も見学したというものでありました。1013年創建とも言われるお寺の荘厳さに圧倒され、お寺にも仏教等の宗教にも、まったく無知な私ですが、その何とも表現しようの無い空気感に一瞬にして魅了されてしまいました・・。思いもよらず、相当な時間を過ごさせていただいたのですが、実はこの後、たまたま目にしたテレビ番組で、こちらのお寺が出ていたのです。それを見て、驚愕いたしました。
なるほど・・!どうりでハンパ無い魅力を醸し出している世界感だったのか!と・・!!
右脳の「勘ピューター」だけで生きているワタクシの身体に、電流が走る思いがしていたのには間違いありませんでした・・!笑

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勝林院は、お経に節をつけて唱える「声明」(しょうみょう)のルーツの寺と言われています。「モロオリ」と言って、木の葉が弧を描きコロハラと落ちてゆく様子を描くような、山紫水明の自然をあらわすもので、自然からのインスピレーションを受けた謡い、と言いましょうか、僧侶の鍛え上げた声で唱えられたお経は、なんとも言えない美しい響きがあります。これは、日本の音楽のルーツとも言われています。本堂の中では、テープ録音でしょうが声明が流されており、思わず聞き入ってしまいました。

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そして、圧倒されるのが、阿弥陀如来像です。
南無阿弥陀仏と唱えれば全ての人が極楽往生出来る」と唱えた法然と、否、それは厳しい修行を積んだ者だけのものだ、とする僧侶らと交わした「大原問答」。
上記、法然が自らの説を唱えると、この阿弥陀如来像が暗闇の中から光を放ち「その通りだ」と自らの教えを示した、という伝説です。
また、これより160年ほど前にも、勝林院を実質的に開いたとされる寂源が行った「大原談義」においても、この世における全てのものに救いはある、とした説法に、やはり阿弥陀如来像が放光し、本尊が自らの意を表したと言われています。聴衆は大いに驚き、このことから、本尊は「証拠の阿弥陀さま」と呼ばれるようになったそうです。

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さて、そのテレビ番組では、私も予てからファンである磯田道史先生を始め、各専門の先生方が勝林院の調査をするといったもので、本堂、そして隣接する二つの蔵を調査する(2020年1月調査)内容でした。これがもう、驚きの連続でした・・・!
まず、上記ご本尊の阿弥陀如来像の中からは、江戸・鎌倉・そして平安時代の三体の仏像が出てきました。そもそも仏像の中というものは、例えば経文であったり、仏像やあるいは髪の毛など様々なものが納められている、さながら「タイムカプセル」です。台座の中からは「涅槃図」(お釈迦様が亡くなる時の様子を描いた仏画)が発見され、これはご住職も見るのは初めて、といったものでした。えっ・・、ご住職も見たことないの?と不思議に感じるかも知れませんが、こうした秘物等はむやみに開帳するものでは無く、場合によっては祟りがあると畏れるものです。連想したのは、これまた先日訪れた法隆寺夢殿にて、救世観世音菩薩立像の特別開帳が行われていたのですが、この菩薩像は約200年間厨子の中に眠っていたそうです。明治になってアメリカの東洋美術史家、アーネスト・フェノロサが「この厨子の中にはとんでもない秘物、お宝が入っているはずだ」とし、開けてくれ!と、長きに渡って粘りに粘った交渉の末、明治17年にようやく公開されるに至ったといいます。それまでずっと、祟りがある、として開けてはいけない秘仏だったのですね、思わずそれを、連想してしまいました。
更に、隣接する二つの蔵からも、お宝が次々へと発見されていきます

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蔵からは、徳川歴代将軍の位牌や、「徳川家康の念持仏が寺に収められた」という古文書も出てきました。番組の中では残念ながら、家康の念持仏は発見されませんでした。念持仏とは、自分だけの仏を身に持っているもので、小さい仏像です。上杉謙信の泥足毘沙門天明智光秀地蔵菩薩豊臣秀吉の三面大黒天などが有名ですが、これに徳川家康阿弥陀如来像、というものが新たに証明されたらすごいことですよね・・。
そして、なんと浅井長政の直筆の書状(安堵状)が出てきたのです・・!!
時は元亀元年(1570)ということで、私は戦国もまるで無知なのですが・・、姉川の戦い織田信長に敗れた僅か5ヶ月後の書状。通説では、戦に敗れた浅井長政は近江に留まり衰退してゆくのだと思うのですが、この書状によってそれが覆されます。姉川の戦いの僅か5ヶ月後の時点で、長政は比叡山の西側、大原までをその支配下に置き、いざ京都に責め込まんとしていた状況が浮き彫りになってくるのです。比叡山は北陸から京都に米等を運び入れる「鯖街道」の言わば「首元」。そこを長政に押さえられていると言うことは、信長にとっては危機です。翌年の1571の「比叡山焼き討ち」ですが、これを鑑みると、焼討ちは単に織田信長の残虐性からの所業では無く、鯖街道を解放させるべく地政上の理由から坂本の宿坊を、そして大原に大きな影響力を持っている比叡山を焼討ちしたとも考えられるのです。つまり織田信長は相当追い詰められていた、と見ることも出来ましょう。これはすごいですよね・・、たったひとつの古文書から、歴史が書き変わる・・!同時に、明智光秀の安堵状の写し?も出て来たようですが、これは信長の下知によるものでしょうか?いずれにしても、このことから、名だたる戦国の武将達がここ、大原の支配を巡っていたことが伺い知れます。

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そして同じく蔵から出てきた、中世最大の権力者、室町幕府三代将軍「足利義満肖像画」です!肖像画は出家後の姿の義満でした。
勝林院と足利義満との繋がりは、やはり「声明」でした。南北朝の動乱期に、足利義満武家は統一したものの、朝廷や神社仏閣は分断したままでした。そこで義満は出家し、「声明」の力によって朝廷を制し、天下に立とうと考えたのではないでしょうか。
応永13年(1406)、宮中で催された天皇家の法要に、義満は武家出身として初めて声明を披露したのです。「調声」といって、声明の「リードボーカル」だそうです。金の袈裟を纏い、花びらを撒きながら声明を披露する義満。武家が出家して僧になり、法要を取り仕切った前代未聞の事であり、これは宮中に与えるインパクトの大きさは、絶大なものだったといいます。義満は声明の力によって、武家だけでなく全てのものを束ね、絶対的な権力者であることを示そうとしたのではないでしょうか

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そんな14世紀の南北朝時代の絵画が文字通り「お蔵入り」しており、人目に触れずに何百年間も時代を超えて姿を現すというこにと、改めて興奮を覚えます。こうした数々の、歴史的なお宝が黙って蔵の中に眠っているのです。
一般的な観光スポットとして、連日大勢の観光客が参拝に訪れる神社仏閣をブラブラ、も良いですが、やはり漫然と参拝するよりも、そこにある歴史的な側面をある程度勉強していないと、底深く楽しむことは出来ないな、と改めて思いまいた。そうであれば、逆に「観光スポット」ではない寺社等でも、相当楽しいです。
かなりな時間を勝林院で費やし、境内に入る時に渡る「三途の川」を再び渡り、妄想タイムワープしていた私は「現世」に戻って参りました。笑

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ここにもありました。
「法年上人の腰かけ石」。
この後、普通の人にはメインなスポット、三千院にようやく移動です・・笑