「龍馬をゆく」の旅を始めて約17年。
なかなか訪れる事が出来なかった場所のひとつがここ、「大牧薩摩工事役館跡」です!
ところで今は「牧」の字が「巻」に変わっているのでしょうか・・・?
ご周知、木曽三川における宝暦の治水事業「宝暦治水事件」として有名です。
宝暦4年(1754)~5年ということで、龍馬の時代よりも前の時代なんですが、私はこの薩摩義士の話が非常に好きでして、「龍馬をゆく~鹿児島編」にも入れさせていただいておりまして、今回も「龍馬を」に入れされていただきたいと思います。
岐阜県は養老郡養老町大巻、という場所にある「大巻薩摩工事役館跡」を訪れると、内地では珍しい広々とした駐車場があり安心して車を停めることができました。
その駐車場に設置されていた大きな桜島が噴煙を上げる様子の碑。
薩摩義士への感謝をこめて。という薩摩義士への「感謝碑」です。
「宝暦治水」とは、宝暦年間に幕府が薩摩藩に命じた治水工事で、暴れ川で洪水が多発する木曽三川、木曽川・長良川・揖斐川の治水工事です。
これは幕府が薩摩藩を裕福たらしめない政策手段として「手伝普請」を命じたというのが定説ですが、ただでさえ難工事であるのに加え、幕府による陰湿ないじめ、嫌がらせ、地元住民との軋轢等々が積み重なって、苛烈極まる事態となり多くの死者を出した「事件」となりました。
巨大なインフラ難工事の経費は全部薩摩持ち。専門職の工夫などは一切雇ってはならない。数十万両もの莫大な経費が費やされたといわれます・・。
それだけでも藩が潰れてしまいそうに思いますが・・・その上陰湿極まる幕府の妨害工作。ふざけるな!治水をさせたいのか、治水なんぞはどうでも良く、単に薩摩をいたぶり殺して楽しみたいだけなのか・・!どっちだ・・!
劣悪な状況下で病に倒れ命を落とす者、さらには幕府の弾圧に怒りに打ち震え抗議の為に腹を切って果てる者も続出(あまりのひどさに薩摩に同情し、同じく切腹して果てた幕府方の武士もいた)し、家老の平田靱負は苦悩に苦悩をを重ねます・・。
地元の庄屋がつるんで、川の治水以外にも田んぼも開墾させたり、一層の負荷が薩摩に掛かります。怪我をしても手当をしてもらえないとか、死者の埋葬も地元住民が幕府を恐れて拒否したり・・・本当に惨めな気分になります・・・。
そんな苛烈極まる状況下で一年と数カ月、ついに難工事は全ての工事領域が完了しました・・。
割腹自殺者52名、病死者33名と言われますが・・・とんでもない被害を出しつつも、薩摩藩は木曽三川の治水工事を成し遂げたのでありました。
ちなみにこの宝暦治水事件を扱った漫画「薩摩義士伝」が激烈です・・!
ご興味がある方は、ぜひオススメいたします。(注:少々グロいです・・・)
「史蹟 薩摩義士役館跡」。
ここに、平田靱負の像がありました。
川を望む平田靱負の像。
鹿児島でも平田靱負屋敷跡の「平田公園」に、翁の像が建っていましたが、現場を前にした平田靱負の像はより精悍に見えました。
平田靱負は工事における多大な負担の責任をとり、ここ「大牧役館」で切腹したというのが通説ですが、これには諸説あるようです。
翁の墓は伏見の「大黒寺」にありますが、翁の他にも「平田姓」の者がいたらしく、切腹者の「平田」はその人のことではないか、との説もあるようです。
激烈な労務によって身体を壊したことは容易に想像出来、嘔吐を繰り返していたという話もあるようですので、病死であったのかも知れません・・。
役館跡の脇に供養堂も設置されており、ご位牌が中にありました。
合掌ー。
そして藩主・島津重年も後を追うように、その翌月に27歳で病没しています。恐らく、相当な心労であったことでしょう・・・。
ふと、八郎大明神の背の方向に目をやると、走ってきた道が見えたのですが、なんとも東北のとある町とデジャブるような気分になったのは不思議な体験でありました。
さて、平田翁の顕彰碑に敬礼し辞するとしましょうか・・・
ん・・・!
あれ・・?なんだか小さな像があそこにもある・・・!
めっちゃミニマムな平田靱負像でした・・・^^;
これは・・かわいい・・・。笑
役館跡の向かいには、「薩摩花壇」。
奥に咲いているのは「ルピナス」でしょうか・・?思わず富良野を連想します・・。
せっかくなので、ちょっと堤防?を覗いてみようと思いました
ああ・・・。
なんか・・久しぶりに・・・・こういう・・・
心休まる景色です・・・。
堤防に出てみましたが、ここは揖斐川の一本内側にあたる水門川という場所ですね・・・。
時折、もの凄いスピードで車が通り過ぎていきます。
が、基本、誰もいません・・・笑
と、いうことで、今回は「木曽川宝暦治水事件」、薩摩義士を巡りました。
次回は「治水神社」をUPしたいと思います。
@岐阜2022