うめじろうのええじゃないか!

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【うめじ論】人は皆、自分じゃ破れないしゃぼん玉の中に生きている。

こんばんわー

久々の「うめじ論」です。

 

突然ですが人は皆、所詮は「独り」だと思われますか^^;?

え?いきなりなんてネガティヴな思想から入るんだって・・?

いやいや・・決してそういうことでは無いんですが・・・これからお話する「しゃぼん玉」のお話。それを聞いていただいた上で、この質問についてお考えいただければと思います(^^)

 

さて、その「しゃぼん玉」。

 

ワタクシ、うめじろう的にはですね、人は皆、見えない言わば「しゃぼん玉」のようなものの中に生きているんじゃないか、と思うんです。

よく昔のくだらないテレビ番組等で、大きな風船の中に人が入ってわやわやするような、ああいうイメージですね。

どでかい風船のようなしゃぼん玉の中に私達は生きていて、それはともすれば針でプチンと刺せば弾けて消えてしまうように思えるのですが、これがまたそうじゃない・・・。

そのしゃぼん玉を構成しているビニールのような物体は、どこまでもくにゃくにゃしていて、どれだけ鋭利な針状のもので突き刺そうとも決して弾けない、穴すら空かない。

穴も空かなきゃ刃物で切れもしない。ただひたすらにくにゃくにゃして、割ったり破いたりどうすることも出来ないようなしゃぼん玉です。

そしてこれは無色透明で、私たちには決して見ることは出来ない。目で認識することは出来ないから、そんなしゃぼん玉の中に生きていることすら認識しようも無い。

そんな状況下でこの世を生きているのが、私たちなんじゃないでしょうか・・・?

 

なぜならば、人は皆、誰かと繋がりたいと願ってやまない生き物だから。

 

こうしたブログにしろ、SNSにしろ、リアルに顔を合わせる老人クラブにしろ、赤ん坊から年寄りまで、全ての人間は誰かと心繋がっていたい、安心していたい、それを継続していたい、そう願って生きていると思うからです。

 

が、しかし・・・

なかなか、そうはいかない。

 

誰かと常に繋がっている事で人は安心し、今日も明日も生きていける。

しかし、そうじゃない人達がごまんといるじゃないですか。

孤独に落ち、生きる術を失って、命を落としてしまう人・・後を絶ちません・・・。

「独りで悩みこまないで」「誰かに相談して」「声をあげて」

などというけれど

それは即ち、繋がることとは違うと思う・・・。

誰かと心繋がる事が出来るならばきっと

生きてゆけるのだと、そう思います。

 

そしてこれはまた、決して他人事なんかではない、私も、そしてアナタだって背中に薄紙一重で張り付いているようなもので、いつ自分が当事者になるかなんて解りません。

 

そんなやっかいな見えない「しゃぼん玉」の中で、各々が別々に生きていて、それは親子であろうが夫婦であろうが家族であろうが兄弟であろうが関係無く、生きとし生ける人全てが「それぞれの」しゃぼん玉の中に生きているんじゃないかと思うのです。

そう考えると人は皆、孤独な生き物ですよね・・・。

 

そいつを破って繋がりたい

これはきっと、人類始まって以来の人間の変わらぬ願い、なんじゃないでしょうか。

 

自分の意思ではどうしようとも破れないしゃぼん玉。

 

これが、ある時ひょんな拍子に突然弾けて破れる時が、人生にはあるんだと思います。誰かと相思相愛になった瞬間、親子がお互いを愛しむ瞬間、男達が命を掛けて闘った後のリスペクト架×リスペクトの魂

そんな一瞬の魂の煌めく瞬間だけ、自然としゃぼん玉は弾けお互いに繋がり合える瞬間なんじゃないでしょうか。

 

それは、紛れもなく至上の幸せを感じるひととき。

なんとも言えない暖かく、安心し、安楽なるひととき。光の真綿に包まれたような境地。願わくば、ずっとこの境地に居続けたい。

 

しかし、それもずっとは続かない、必ず終わりが訪れるのです。

そう、「ZTNの法則」。ずっとは無い、のです・・・。

 

「愛憎」なんて言葉もありますけども、家族、親子、夫婦であればこそ、当たり前に繋がっていたいと思うものが当然で、それ故に、自らの意思ではそのしゃぼん玉を破って繋がれないが故に、愛憎劇も生まれるんじゃないでしょうか・・・。

他人同士以上に、家族や親子や夫婦がやっかいだったりするのは、そういう事なんじゃないでしょうか・・。

 

しゃぼん玉が弾ける瞬間は、言わば神のみぞ知る。自分ではどうにも出来ない。

だからこそ、人は皆、天に手を合わせ願うのではないでしょうか。

 

そして私たちは皆、そうしたしゃぼん玉の中で他と隔たれた中に生きているから、常に繋がりを希求して日々を生きているんだと思うのです。

 

私たちは、多くの人に囲まれて煌びやかな日々を送っている人を見ると羨ましさが募り、あの人はいいなあ・・私は・・私だけはどうしてこんなに孤独なんだろう・・と思いがちですが、決してそんな事は無いと思います。

「あの人たち」も、私たちと同じようにしゃぼん玉の中に生きています。

一見、人と常に繋がった煌びやかな生き様に見えても、その実孤独なはずです。煌びやかに見られていればいる程、その孤独も深いのではないでしょうか・・。

 

ですからね、決して自分だけが孤独だなんて思わずに、みーんな孤独なしゃぼん玉の中に生きているんだ、と思いましょう(^^)笑

そう思うと、気も楽だというものです。

 

どうですか?

人は皆「独り」だと思いますか?

独りだとしたら、人は皆、独りだからこそ人と繋がろうとする。人は人と繋がらないと生きていけないから「人間」になる。

そう考えると、「独り」という概念がちょっと変化して感じられるような気がするのは私だけでしょうか?

 

人は皆、各々「しゃぼん玉」の中に生きる孤独なものである。

誰もが皆、孤独であるからこそ人と繋がろうとする。

そのしゃぼん玉は自分の意思ではどうにも破ることは出来ないが

ひょんな拍子に突然弾けて割れる時がある

その刹那、一瞬の至上の喜びを希求して生きている

それが人生?ということになりましょうか・・・?

 

だからこそ、人さまには偉そうな態度を取らず、思いやりの心を持って接したいものですね。

 

そう、思い「槍」を持って人と接していればこそ、

どこかで槍の先がしゃぼん玉をプチっ、と割ってくれるかも知れません(^^)

 

 

本日もお付き合い、ありがとうございました(^^)

 

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