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木戸孝允邸@龍馬をゆく2021

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二条の鴨川沿いに近い場所にある「お宿いしちょう」。
その玄関先に石碑が建っています

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木戸孝允旧跡」。

この一帯は元々、近衛家の別邸であったそうです。維新後、公家や要人が東京に転居する一方で、「維新の三傑」となった木戸孝允が京都別邸として購入した敷地だそうです。

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お宿の奥、鴨川沿いには現在京都職員会館「かもがわ」がありますが、その敷地内のお庭に「木戸孝允旧邸」が残されています。

職員会館の受付に申し出て、見学させていただきました

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木戸孝允旧邸」。

元々は、先ほどの旅館を含め広い敷地ですから、邸宅もさぞかし立派なものであったことでしょう。しかし現在残されているのはその一部のみということです。

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道路沿いにも碑が建っていましたが、「明治天皇行幸所木戸邸」の碑が建物の前にドンと建っています。

明治10年5月、病床にあった木戸を明治天皇がここに見舞いに来られたということです。民間人の見舞いに、天皇が公に出向かれるなど異例なことでしょう。非常に、特別な関係を感じてしまうのも、無理の無い話ではないでしょうか。

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木戸孝允と、幕末京都の政局等の来歴の説明が設置されていました。

文久から慶応にかけて、まさに長州がひっくり返って暴発していくイメージがありますが、その長州藩邸も近く、やはり長州藩士らが多くこの界隈に寓居していたようですね。

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「逃げの小五郎」が物乞いに身をやつして、三条大橋の下に潜んでいたという有名な逸話がありますが、その小五郎に芸妓の幾松(妻・松子)が弁当をこしらえ橋下の小五郎に落とした、と言われていますが、どうやらこれは、現在における二条大橋での事のようですね

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そういう話もきくと、なるほど、激動の幕末京都の逃げ抜いた「思い出の地」に別邸を買って住んだとも思えるし、結局は長州藩邸の周辺が安心出来るのかな、と感じますね。あの山縣有朋もあちこちに別邸を買い漁っているようですが、現在の「がんこ二条苑」もそうですよね。それもやっぱり二条界隈、長州藩邸界隈でここにも近いですね

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個人的に、これも何度も言っておりますが、「桂小五郎」は好きですが、「木戸孝允」は好きじゃないんですよね・・笑 江戸時代は好きだけれども、明治時代に入ると全然好きじゃない、というイメージにリンクしているものだと思われます・・・苦笑

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とにもかくにも、木戸孝允は晩年ここで病床に伏していた訳であります・・。亨年44とも45とも言われておりますが、当時の志士の感覚としてはいかがなものだったのでしょう、それこそ20代の若さで命を落としていった多くの若者たちがいる中で、ましてその指導的立場にいた木戸孝允の心中や、いかなるものであったのでしょうか・・

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明治10年と言えば、「西南戦争」です。2月に西南戦争が勃発し、木戸もさぞかし心労が重なっていたことでしょう・・。その臨終の際、「西郷もいいかげんにしないか」と言ったのを最期に、ここでこの世を去ったと伝わっています・・。

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軒先には庭が広がっており、その先は鴨川です。晩年の木戸もこの庭の景色を眺めていたのでしょうか・・。

幕末ファンも十人十色、好きだの嫌いだの色々あろうかと思いますが、いずれにせよ誰が操ったか解らないものの、その幕末動乱の渦のど真ん中にいた一人に違いはありません。そんな幕末ビッグネームの終焉の地に、思いを馳せたいと思います

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@京都2021