うめじろうのええじゃないか!

幕末巡りと食べ歩き、時々うめじ論

西谷墳墓群史跡公園@出雲2020

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さて、出雲古代史浪漫を巡る旅、第三回は「西谷墳墓群史跡」です!いよいよ古墳時代ですね!

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「西谷墳墓群」は宍道湖と西側の海のほぼ中央に位置する小高い丘にあり、大小6つの四隅突出型墳丘墓が集まっています。昭和47年(1972)年に最初の四隅突出型墳丘墓が発見されたそうで、四隅突出科型墳丘墓とは、ちょうどこたつ布団を掛けたこたつのようなイメージの墳丘墓です。

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墳墓には白い石が張ってあり、丘陵であることを考えると遠く、そして海からも目立ったであろうことがうかがえます。

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副葬品には大量の土器が出ており、しかもそれらは出雲のものだけでなく、各地から集まっているそうです。水銀朱で赤く塗られた土器やガラス、こうしたものから、当時から相当広範囲に人と物の交流があった事が伺え、この地にも相当大きな政治システム、経済力を持った王がいたと考えられます。

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これですね。2号墓は貼石も復元されており、白い石が張られていた様子がよく解ります。しかし、今目にしても異様に思えるこの様相・・。遥か古の竪穴式住居等を思い浮かべてみてください。ああいう藁で組んだ屋根の下の穴で暮らしていたような次代に、これはもはや異次元の要塞ではありませんか・・?

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上部に上がれる3号墓に立ってみました。2号墓の様子が俯瞰して見えます。なるほど、コタツですね。この丘陵の右手には現在の斐伊川が流れていますが、当時は恐らく暴れていたでしょうから、現在の位置取りとは違うかもしれませんが、しかしながら斐伊川が神門海域に注ぐ流れの中で、ひとつの接点ではあったのではないでしょうか。

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市街地が望めます。右が宍道湖、左が海です。恐らくは、ここから見渡す地が、王の支配地域ではないでしょうか。

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2号墓は、内部の一部も見学出来るようになっていました。しかしこの様子・・・。何か不思議なものに思えませんか・・?この絵図らではイマイチですが、四角でも丸型でも半円形のものの一部から開く出入り口・・。まるで飛行機のタラップのようだと思うのは私だけでしょうか・・?一般的な墳墓の入口も想像してみてください。木が生い茂り、小山のようになっていますが、その入口って相似に感じてしまいます・・。

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ちょっとドキドキしながら中へ入ってみます・・。例によって、誰ひとりいません。

ちなみに、この後に訪れた隣接する「出雲弥生の森博物館」で、恥ずかしながら初めて知ったのですが・・、古墳時代の埋葬者の骨って溶けて無くなってしまうものなんですね・・。私はてっきり、骨って残るものだとばかり思っていました・・。よく縄文人の骨が発見された、という報を見聞きしたりしますが、たまたま余程良い保存状態にたまたまあってこそ、なのですね・・。そう考えると、骨も溶けて無くなるのに、埋葬品は残っている、という、これまた凄いと思いませんか・・。

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そして!ここにびっくり仕掛けが・・!?

2号墓内部では、木棺部を使って3号墓の埋葬状態をホログラムで再現されるような仕組みになっていました!ボタンを押して暫くすると、ぼんやりと埋葬された出雲王の姿が浮かび上がってきました・・。失礼ながら、この日は私誰以外誰ひとりいない史跡で、このような凄い展示がされているとは驚きました・・笑 しかし嬉しいですね、こういう気分を高めてくれる仕掛けは、わざわざ飛行機に乗って来た甲斐があります!笑

さて、この西谷の出雲王朝は、9号墓に埋葬された四代目をもって唐突に途絶えたということです。四隅突出型古墳とともに、青銅器同様に、突然出雲から姿を消したというのです・・。 これは一体何を意味するのでしょう・・。

ここにまた、「出雲の国譲り」神話が心に飛来します。出雲弥生の森博物館の館長さんの話としてある雑誌に、「弥生後期は外交の時代。吉備や筑紫は大和と繋がり、前方後円墳の文化圏を作っていく。出雲もそこに敵対したわけではないと私は思います」「矢傷のある人骨は出ていないですから」とあります。つまり他所者と戦って消えた訳ではなく、他所の新勢力に恭順した、ということでしょうか・・。つまりは「譲った」。

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さらにその雑誌には、「崇神天皇の在位は3世紀頃とも推定される。まさに、四隅突出型墳丘墓が消えたその時代だ」と、あります。

崇神・・・。10代・・。その前には神武天皇以降の「欠史八代」・・。大陸勢力、騎馬民族騎馬民族が来襲したとしても戦わずして「国譲り」・・。

うめじ論ですが、様々な事象が、どこにはめて良いか解らないジグソーパズルのように頭の中に点在します・・。一般的に、外部からの勢力が襲来したとしたら、戦うのが普通だと思うのです。それをせずして「譲る」というのは、その根底にあるのは「仲間」、ということになりはしないか・・、そのように思えてしまうのです・・。では何故にして「他所者」が「仲間」たりうるのか、そして平和裏に「譲れた」のか?そう考えると、「国譲り」の前段階の時代に、何らかの「下準備」があってしかるべきだろう、と思ってしまいます・・。

単純に、例えば今の感覚で同じ「日本人」、「日本」だと例えれば、自民党政権民主党政権に代わった、という話は自然に納得出来るのです。つまり政権は代わったが、その本質たる部分は同族・・?などと不思議に感じますね・・。

それと、単なる連想ですが、「四隅」と聞いて私が何気なくぱっ、と連想したのが「四道将軍」でした・・。吉備津彦が西道、など四人の皇子が四つの国を征討していく話だと思うのですが、この皇族、いわゆる「欠史八代」ですよね・・・。そして10代崇神に繋がるとするなら、何らかの関連も・・?などと思ってしまいました・・。

いやー、しかし、古代史は謎が謎が掛け合わさって、とんでもないほどこんがらがって来ますね・・^^;、まあ、それこそが面白いと言えば面白いんですが・・、ちょっと最近古代史にハマってしまってる私です・・。

さて、次回は「出雲弥生の森博物館」と、めちゃくちゃ綺麗な勾玉を旅いたしましょう~!

今回もここまで、お付き合いありがとうございました。

 

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