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加茂岩倉遺跡@出雲2020

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さて、出雲古代史浪漫の旅、第二回目は「加茂岩倉遺跡」です!

幕末ファンとしては、「岩倉」などと聞くと思わず、おおっ・・!!と思ってしまうのですが・・笑、今回は幕末ではありません、古代史です!

ここは平成8年(1996)、山中谷あいの農道工事中に、斜面地から偶然銅鐸が発見された場所です!

早速私は、出雲市駅でレンタカーに乗り込み現地へと向かいました。時は2月、やはり西国と言えども日本海側は雪が降るんですね。久しぶりの雪道運転に、ちょっと嬉しい気もしたり・・笑

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ここは、先日UPした「荒神谷遺跡」から車で10分程度でしょうか、高速道路の通る山あいの谷、地図でもわかるように山の中です

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こんな山の中の谷間の斜面に、一カ所からとしては史上最大となる39個もの銅鐸が出土したのです!これは驚きですね・・。荒神谷遺跡といい、このことから弥生時代の出雲は「青銅器王国」であったと言えるのではないでしょうか

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平成11年(1999)には国指定史跡になったという事で、整備事業が行われたそうです。それにより、現地には発見時の出土状況が再現されており、古代史浪漫紀行者としては嬉しい限りです

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出土の現地に着きました!雪がまた、臨場感を演出してくれるようです!

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あっ・・、銅鐸が埋まってる・・!

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ははあ・・・、なるほど~・・・!こんな風に横になった状態で埋められていたんですね・・!レプリカとは言え、実際の現地で、自然の中で見ると非常に臨場感があります

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多量に出土した銅鐸は、小さい銅鐸が大きい銅鐸の中に重ねるように「入れ子状」になっていたそうです。そんな様子も、土が詰まって埋められていた様子と共に見てとれます。素晴らしい展示ですね

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この遺跡は、荒神谷博物館にも説明があり、なるほど現地に来ると非常によく状況が掴めますね

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それにしても、この大量に埋められた青銅器・・・。一体何を意味しているのでしょうか・・。ここのところ、ずっと古代史について考えている自分がいまして・・、出雲に来て更に謎が深まったというか、古代史というのは考えれば考える程謎が深まってゆく、そんな気もして、それこそがまた、古代史浪漫たる所以なのかもしれませんね・・。

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 「出雲国風土記」というものがあるそうですが、そこにはこの岩倉という土地も「神の宝を積み置くところ」とされているようです。この場所から西には、神名火山のひとつと言われる「仏経山」があります。そもそも「風土記」とは、国庁から太政官への報告文書、つまりは行政文書であっていわゆる「作品」の部類では無いのですが、群名、郷名の由来や土地の具合(肥沃度等)、産物、さらに「その土地の老人の伝える伝承を記録する」といった面もあったようで、後に作品扱いされるようになっていったようです。

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風土記」は、まとまった形で今日まで残っているのは出雲国を含めて僅か5国だけ(当時国庁は60以上もあったらしい)だそうでして、貴重なもののようです。その中でも、「出雲国風土記」は一種独特なもので、他には無い数値的な記録や、寺社、道路情報、方位、そして、天皇がほとんど登場しない等といった特徴があるようなのです・・。

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風土記の作成は通常、太政官(国政のトップ)から国庁(役所)に下り、国庁の長官(中央から派遣された役人)である国司が編纂責任者となるそうです。で、実際の作業は群役所の地元民に下ろされます。

ところが、「出雲国風土記」においては、編纂責任者が国司ではなく、出雲国造だというのです。出雲クニノミヤツコは、国庁のある意宇の群長官と出雲大社、それからスサノヲを祀る熊野大社の神官を兼ねていたというのです・・。・・!?神社の宮司であり国造である、という話、どこかで聞き覚えがありますね・・!

こうしたことなどからも、やはり出雲国とは、中央とは一種独立した特殊な大きな力のある豪族が支配していた・・!?と思ってしまいます

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さて、この加茂岩倉遺跡にはガイダンス施設が整備されていまして、出土現場から後ろを振り返ると谷に架かる橋のように見えます

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道路の上に架かる橋のような建物。珍しい形ですね

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「加茂岩倉ガイダンス」には、銅鐸のレプリカが綺麗に展示されていまして、訪れる者の目を楽しませてくれます。無料で見学出来るというのが、ありがたいですね。

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こちらの施設では、発見時のドキュメント映像が上映されていて、その様子がよく解りました

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いつものことですが、私が訪れたこの日、この時、他に客は誰ひとりいません・・笑。施設の方、学芸員さん?が出てこられて、珍しい奴だと思われたのでしょうか・・笑、大変熱心にご説明くださいました。

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私も、幕末とは勝手が違い、ほぼ知識も無いにも関わらず、興奮して次々と質問をしてしまい、思っていた以上に時間を費やしてしまいました・・。

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特に、「出雲の国譲り」と遺跡との関係性?等がめちゃくちゃ気になっていて、学芸員さんとのお話がとても楽しかったです。

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まだ寒い時期でしたが、ご年配の学芸員さんがお茶を出してくださいまして・・、大変恐縮でございました・・。ありがとうございました。

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しかし、この鏡、そして銅鐸といったものそのものが、見れば見る程不思議なものに見えてきます・・。銅鐸は最初は小さなものが、段々と大型化していったと聞きますが、実用から祭事品へと変遷していったということでしょうか・・。あるいは金のように、青銅器も一種の「信用財」としての面もあったのでしょうか?威信財であったろう事は、容易に理解出来るのですが、そのあたりの考察も、もっともっと詳しい方のお話も聞きたいですし、本等も探し読んでみたいものです。

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いやー、しかし面白いです・・!実際にここを訪れる前に思い描いていた以上に、面白かった!という印象です。これでまた、古代史や出雲王朝の話等を読む楽しみが増大いたしました!古代出雲浪漫旅、まだまだ続きますよ!笑

次回からは古墳を巡ります。これも、私はある意味まったく知識が無いから、肩肘張らずに純粋に楽しめてるのかもしれません・・笑

次回もぜひ、お付き合いください

ありがとうございました。

 

 

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