伝教大師「最澄」。お山に籠って叡山をひらき、天台宗の一大本拠の基礎を作った方ですね。司馬遼太郎を歩く、由緒正しきおっさんの在り方(笑)、今回は「比叡山」です。
渡来系氏族であったらしい最澄は、現在の大津市界隈で生まれたそうです。現代の感覚で「渡来系」などと言うと、不都合に感じる方も多いかもしれませんが、この時代、この界隈はある意味全て「渡来系」です。この時代の畿内の約三割が「諸蕃」という外国系であったらしいです。
比叡山に登る「本坂」は、坂本の日吉神社の奥から登るルートだったようで、日吉神社の奥の鬱蒼とした様子に、当時の様子の雰囲気が偲ばれます。最澄が籠ったのは、今の東塔、北谷あたりであったと言われています。
坂本ケーブルのケーブル坂本駅にやって来ました。ケーブル延暦寺駅までを11分で結ぶ日本一長いケーブルカーだそうです
タモリさんと同じように、このケーブルカーに乗ってみたくて、ドライブウエイを車で上がるのは止めました(笑
ケーブル延暦寺駅に到着です
ここから琵琶湖が望めます
堅田と守山を結ぶ琵琶湖大橋も良く見えます。なるほど、こうして眺めてみると湖西の斜面と土地の少なさが解りますね。お山の上は下界と空気が違って感じられます。
ケーブル延暦寺駅から東塔まで歩きます。その途中、木々の間から琵琶湖を望む景観は、最澄の頃のそれと近いのかも知れませんね
東塔に着き、総本堂である「根本中堂」に到着しました。2019年のこの時期、改装中でこれまた「ブラタモリ」で観た様子と一緒でした。これはこれで良き記念になりました。こちらの本堂には、ご周知、「不滅の法灯」があります。最澄がお山に籠って灯した灯りが、約1200年も消えることなく灯し続けている、と言われる灯りです。油が尽きないよう、僧侶が継ぎ足し続けており、見学したこの日もその様子を実際に見る事ができました。この「不滅の法灯」から、気を抜くと油が尽き灯りが消えてしまうので、「油断」という言葉がここから来ている、という説もあるようで感心致しました。
司馬先生の書くところでは、最澄は物事の創始者でありながら政治性を持たず、その果実を得ることなく死に、世俗的には門流の人々が栄えた、とあり、既成の奈良仏教との論争においては、最澄が感じた奈良仏教の欠陥は「差別」である、と。
奈良仏教は仏になる難さが説かれており、これは成仏の為の段階(カースト)が反映されたものであろうとしています。最澄によって展開される大乗仏教はのちに「草木も土も洩れなく成仏する」という平等思想をうみ、その後の日本的感性や思想の基盤をつくりあげてゆく、と記しています
「乗」とは教義体系をいい、乗り物の意で船に例えました。奈良を「小乗」と言い、天台宗を「大乗」と言いました。小乗はちっぽけな船で、大乗は一切衆生が乗れる大船です
ブラタモリでもやっていましたが、根本中堂の仏様は、我々参拝者と「同じ目線」に座されており、そんな平等思想を表すひとつの在り様でした
その「ブラタモリ」でタモリさんが撞いていた鐘。私も50円払って撞いておきました(笑
伝教大師、最澄の言葉で有名なのが「忘己利他」(もうこりた)です。己を忘れ、他を利するは慈悲の究極なり。私は、太宰治ではありませんが徹底した自己否定にクリエイター性を感じる所があり、非常にアーティスト性を感じてしまいます。最澄の自己卑下もすさまじく、「愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄」などと自身のことを言っており、まさにこうした徹底的な自己否定と「忘己利他」が繋がっているような気がしてなりません。ついでに、連想したのが吉田松陰に超絶スパルタ教育を行った玉木文之進。徹底した「私」の叩きつぶしを連想してしまいました・・。
最澄がお山に籠った当時は、山の西側にはまだ「京都」は存在していません。平安京はまだ原野であったにすぎなかった時代、現代の私たちにはにわかに想像が出来ないのですが、とにかくこの比叡山の空気感というのは一種独特なものを感じざるを得ません。今回は東塔しか行かなかったのですが、何が面白いということは無いものの、その独特の精神性にすっかり魅了されてしまいました。何があるということでもないのに、こんなに楽しいと思ったのは初めてかも知れません。
ちなみに、おみくじというものも比叡山が発祥らしく、我々が良く知る「おみくじ」とは違って、担当の僧侶と面談をしガチで相談して仏の思し召しを受ける、という、どちらかというと「占い」的な感じで執り行われているようですね・・。ちょっと受けてみたい気もしますね・・・。
さて、帰りも坂本ケーブルで帰ります
大津の街並みが一望出来ます。司馬遼太郎「街道をゆく」叡山の諸道編、私にとって最高に贅沢なひとときなのであります