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2023年「第48回 京の夏の旅」での【新選組結成160年特別公開】の記録です。
前回は【旧前川邸土蔵】、そして【壬生寺本堂と壬生塚の土方歳三像】をUPいたしましたが、今回は【輪違屋】です!
「輪違屋」と聞いて興奮を覚えてしまうあなた!お好きですねえ~~笑
どうぞご興味のある方は、お付き合いくださいませ(^^)
【新選組結成160年特別公開】として、2023年夏、島原では「角屋」そして「輪違屋」が5年ぶりに特別公開しました!
無論、私も幕末巡りで何度か訪れてはいましたが・・・内部を見学するのは今回が初めてです!
いつも外観を見学しながら妄想を膨らませていたので・・もうすでに興奮が止まりません!笑
ご周知、「島原」は元々六条三筋町(現在の東本願寺北側)に栄えていたものを京の発展に伴い寛永18年(1641)に現在地の朱雀野に移されました。
その移転騒動が数年前に起こった「島原の乱」を思わせたことから?「島原」と呼ばれるようになったとのことです。
つまりは京都の町が発展することによって民間人も増え、いわゆる風紀的な影響から当時何もなかった場所に移転させられた、といったところでしょうか。
島原は「花街」と呼ばれますが「遊郭」との違いは何でしょうか。
「花街」とは、唄や舞いを伴う遊宴の町であり、一方で「遊郭」は唄や舞い・宴会も無い歓楽のみの町という区分けになるようです。
島原は囲郭的都市構造ですが、歌舞音曲を伴う遊宴の町で和歌俳諧等の文芸活動も盛んでした。
また島原は開放的な町で天保以降は土壁や堀も無くなり、一般の女性も・・老若男女の誰でもが出入り出来たそうです。
かの清川八郎は安政二年に出羽の国を発って諸国漫遊の旅に出ますが、母親を連れて旅をしたそうですのでこれには驚かされます。
そして島原の「角屋」にお母さんを連れて来たという逸話もあり、なるほどいわゆる「遊郭」とは違った事がよく解る事例ですね・・。
さて!
「輪違屋」と言ったら「糸里」!ですね・・!笑
そもそも私が幕末にハマったきっかけが、浅田次郎先生の【壬生義士伝】でしたので、先生の幕末モノは激烈に面白いです!笑
浅田次郎先生の新選組作品は、先生の新選組好きさがめちゃめちゃ出てますよね!
ご興味のある方はぜひ、お読みになってみていただきたいと思います(^^)!
おわっ・・
な・・並んどる・・・・(・_・;)
並ぶとかダメな人なんで・・ちょっとブラブラしてほとぼりが冷めた頃に再度来てみましょう・・・^^;
いや~・・しかし嬉しいですね~(#^^#)
中には近藤勇の書を屏風に仕立てたものや、桂小五郎筆の掛け軸なども飾られているといい・・・想像しただけで興奮MAXです・・・!笑
さて!
一度ぐるりと町中を歩きまして、再度訪れてみますと人の行列は無くなっていました(^^)yes!
受付を済まし、早速上がらせていただきます!
おおおお~~!!輪違屋の大きなのれんに感動~・・・!
で、この暖簾の向こうが調理場になっていて、写真はダメだけど入れないけど覗いてもいいよ、と係りの方に言っていただいたのでお言葉に甘えて(#^^#)
おおおお~~・・・すごい高い天井と梁がすんごいです・・・。
現在も営業しているワケですからやたらに写真も撮れないワケですが・・・
ここ、それこそ浅田次郎先生も見学に訪れた時一番感動されてたって言ってました・・!
先ほど、浅田次郎先生の「輪違屋糸里」をご紹介しておいて何なんですけども・・・
江戸、幕末の頃は【養花楼】(ようかろう)という名称でした・・・。
幕末の物語として「輪違屋」と題していますが、実際は明治になって置屋以外のお茶屋等も始めた頃から付けられた名だそうで・・
本来は「糸里」の物語は【養花楼】でのお話だったという・・・^^;
しかしこの【養花楼】という名前の方が、いかにも芸妓さんを育て養う感が表現されていてすごくイメージ的です・・・。
ちなみにご当主が「髙橋さん」との事で・・「髙」の文字が至る所に・・・。
高島屋の資本が入っているワケではないようです・・^^;
ちょっと写真が暗いですねえ・・・。
向こうのお部屋で案内係りの方がご説明をしてくれるそうです
ぬおわっ・・・
またしてもすごい人だよ・・・!!^^;
最初に並んではったグループかな・・・
こちらのお部屋で説明を聞いたんですが、実際に今でもここで・・・この「恋文」が貼られている前に太夫が座ってお客をもてなすんだそうです・・。
ここに貼られているのは恋文で、いわゆる「また来てね」というものなんだそうです。
もちろん一見さんお断りな世界ですから、「ご紹介」がなければ体験する事の出来ない世界ですね・・。
お庭の様子です。
あの石は男女の象徴を模しているんだとか・・・
もうひとつ分かりませんでしたね・・・。
話が戻るようで恐縮ですが・・・
そもそも「置屋」と「揚屋」の区別が分らない方の為にここで復習しておきましょう。
この後訪れますが、「角屋」は「揚屋」と言って太夫や芸妓は抱えていません。
「置屋」の輪違屋(養花楼)等から芸妓を派遣してもらって、お客に遊宴をしていただく場所になります。
「揚屋」は料理を作っていましたので、今で言えば料亭に相当するでしょう。
一方の「置屋」(輪違屋)は太夫や芸妓を抱え揚屋に派遣します。置屋もまた、明治以降はお茶屋に編入されて宴会業務も行うようになったそうです。
このような「揚屋」と「置屋」の分業制を「送り込み制」といい、これに対して吉原などの遊郭は店で自ら娼妓を抱えて歓楽のみの営業を行いこれを「居稼ぎ制」といいました。
「吉野太夫の掛け軸」。
太夫とは芸妓の中で芸事をはじめ教養等がズバ抜けたトップ・オブ・トップですね。
太夫はVIP客の対応に当たり、公家や大名、旗本の接客をするいわゆるナンバーワンでしょうか。
現在でも5名の太夫がおられるそうです。
そして、幕末・新選組ファンとしてのお目当てはこちら!
何て書いてあるのでしょうか・・・
「近藤勇」の文字があります・・
もうひとつがこちら
「藤原昌宣」とは近藤勇の本名??
ここにまた・・幕末動乱の京を駆け抜けた、新選組の息吹に触れるひとときでありました・・!
残念ながら二階は撮影不可だったのですが・・・二階へと上がるこの階段の上部に・・
ツルツルの「ミラーボール」が設置されているんですよ・・(゜゜)ナゼ?
なんでも明治期以降、ダンスホール?としての使用もされていたとかで・・まあいわゆる鹿鳴館時代?な流れに乗ったモダンな社交場としての顔も持っていたということでしょう・・
そしてお茶屋業としてのミラーボールの役目は、部屋から出て来た人たちがそれに映るので・・お互いの客が鉢合わせしないよう(出て来た様子が分かるように)顔を合わせない為に利用していたそうで・・なるほどクールジャパンなお話です!
二階には「紅葉の間」と言って、壁に本物のもみじの葉を塗り込んで乾燥後に取り出し、そこへ顔料などで着色したという部屋や、
「傘の間」という本物の道中傘を襖に貼り込んだ部屋、そして「傘の間」には【桂小五郎筆の掛け軸】もあり見応え十分でございました!
元禄年間の創業以来約300年以上も営業を続けている「輪違屋」の建物は、安政4年(1857)に再建されたものだそうですが、かなりあちこち手直しされているそうで・・しかしその骨格等は当時のものですので、まさに幕末づくしな体験でありました・・!
もう、むっちゃ楽しかったです(^^)!
ぜひみなさんも、幕末小説を読んでから、訪れてみませんか?笑
価格:2,525円 |
今回もお付き合い、ありがとうございました(^^)
時代を追うな。
夢を追え。
@京都2023
輪違屋糸里 上 文春文庫 / 浅田次郎 アサダジロウ 【文庫】 価格:693円 |