いよいよ2018年「龍馬をゆく」大坂編も大詰めとなって参りました。夕陽ヶ丘は「稱念寺」。ここは伊達宗広、
陸奥宗光親子の
墓所跡となっています。どうもこの、「
夕陽丘」(夕
日岡)とは宗光の父、伊達宗広が
命名したらしいではありませんか。
龍馬ファンの我々からすると、
陸奥宗光=
紀州というイメージを瞬時に思い浮かべると思うのですが、その父、宗広が
紀州藩兵法指南宇佐美家から、
紀州藩士伊達家に入っていたと思います。「大勢三転考」を著し、
紀州藩の筆頭
勘定奉行も務める。藩財政を運営しつつ、
国学者としての著書も顕すなど、この人その深みが半端ない印象なのですが、「骨(かばね)の代」「職(つかさ)の代」「名(みょう)の代」、そして維新後の「オホヤケの代」などの規定に、なにか時代を司ってる印象を受けなくも、ない不思議な印象がぬぐえません。そして
嘉永5年(1852)の突如の隠居、蟄居の幽閉。出ましたね、幕末のビッグネームの相次ぐ蟄居、隠居、謹慎。
烈公、
春嶽公、
慶喜公、
青蓮院らが相次ぐ
安政5年(1858)~よりはずっと早くに、伊達宗広は幽閉されています。
そして息子の
陸奥宗光。我々龍馬ファンにはお馴染みです。が、「龍馬」の物語に宗光は急に登場しませんか。物語があまりに面白いので、なんとなく当たり前に読み進み、「龍馬」の世界に当たり前に存在している
陸奥宗光ですが、私はどこか奇妙な「唐突さ」を感じていました。脱藩した宗光が龍馬の下に転がり込んできた、というイメージになっていますが、果たしてそうなのでしょうか。ファンですから、どうしても龍馬主眼でものを見てしまいますが、日本地図を逆さに見るのと同様、
陸奥宗光主眼で眺めてみると、まるで違った世界が見えてくるのかもしれません。「
陸奥宗光の世界に」、龍馬が登場してきたとしたら。
ちなみにこの、伊達・
陸奥父子、とても彫りが深くて、日本人離れした印象を抱くのは私だけでしょうか・・。
この場所はまた、薩摩の
小松帯刀の
墓所跡でもあるそうで、大坂で亡くなった際に葬られたそうです。その後、鹿児島に改葬されたそうですが、幕末のビッグネームとゆかりの深い
夕陽丘です。