今回、「武信稲荷神社」を訪れました
こちらの神社には、龍馬とおりょうにまつわる逸話が伝わっておりますが、これまでなかなか訪れる機会がありませんでした。今回、京滋に居住する環境下によって、こうしてゆっくりと散策出来る機会に恵まれ、嬉しい限りです
時は2020、コロナ禍。神社には「アマビエ」の絵が掲げられ、疫病退散の祈りが捧げられていました。
ちなみに、「武信さん」は、有名な昔話「一寸法師」の舞台でもあります。
むかしむかしあるところに、身長が一寸(約3cm)しかない子がありました。いくつになっても大きくならないため、「一寸法師」と呼ばれます。
ある日、一寸法師は武士になる為に京をめざし、お椀の舟にお箸のオール、そして針の刀を差して旅立ちました。
京へ着いた一寸法師は、三条大臣殿のお屋敷に住込み奉公します。
ある日、姫のお伴で清水寺への道中、鬼に襲われ丸呑みにされてしまいます。しかし、一寸法師は鬼の腹の中で針の刀を振り回して大暴れ、たまらず鬼は一寸法師を吐きだし逃げて行きました。
その時鬼は、「振れば願いが叶う」という打ち出の小槌を落としていきました。
一寸法師が小槌を振ると、ぐんぐん背が伸びて、立派な男性になりました。そして、姫と結婚し、打出の小槌で金銀財宝を打ち出して、末永く繁栄しました。
この、一寸法師が住込みで奉公した三条大臣殿が、武信神社を創祀した藤原良相公のことで、武信神社のこの地は藤原大臣屋敷があった場所なんだそうです。
一寸法師の話にあやかって、子供が大きく立派に育つように、また、金運・開運・出世が叶うとして信仰されているそうです
さて、龍馬とおりょうの話です
ここに、御神木である樹齢850年とも言われるエノキの木があります
この御神木は、龍馬とおりょうの愛を育んだ「伝言板」としての逸話が伝わっているのです
武信稲荷神社のすぐ前には、幕府直轄の六角獄舎がありました
獄舎には、当時安政の大獄で収容された多くの勤王の志士たちがおり、おりょうの父、楢崎将作も勤王家の医師として、ここに捕えられていました
龍馬とおりょうは何度か訪れるも、面会は叶わず、二人は高いエノキの木に登って安否を探ったと言われています
当の龍馬も幕府から命を狙われる身。身を隠しながら活動する龍馬を案じて過ごしていたおりょうは、二人で幾度となく訪れた武信さんのエノキの木を、ふと思い出します。
神社を訪れてみると、そこには龍馬独特の文字で『龍』の字が彫ってありました
「わしは、今も京都におる」「そして、生きている」
と、いう龍馬からのメッセージ。龍馬が京都にいることを知ったおりょうは、二人の共通の知人を訪ね、二人は無事再開が出来たといいます
武信さんの御神木の榎には、そんな龍馬とおりょうのエピソードが残されていました
と、いう話を聞いて、アホみたいに木に彫られた『龍』を探す私・・笑
もちろん、そんなものはどこにも発見出来ませんでした・・。
そんな龍馬とおりょうのロマンスにケチを付ける気は毛頭ございませんが・・笑、この逸話には不明な点が多いのも事実です・・。
まずはおりょうの父、楢崎将作です。安政の大獄で六角獄舎に捕えられていたのは事実のようですが、文久二年(1862)に死去しました。獄死した、と言われていますが、獄舎からは一年程で釈放され、自宅で死去したという説もあり、はっきりしません。ちなみに、おりょうの回顧録(聞き書き)によれば、文久二年六月二十日に京都三条下ル柳馬場の寓居(自宅)で病死したと言われています。また、一月という説もあります。
そして龍馬とおりょうが出会ったのが、文久三年(1863)頃と言われており、これだと龍馬おりょうが出会った時には、既に楢崎将作は死去しています。龍馬とおりょうが内祝言を挙げたのが、元治元年(1864)8月と言われていますので、出会った翌年に結婚式を挙げたということになります。六角獄舎に捕えられたおりょうの父、楢崎将作に面会するべく、二人で幾度となく訪れていたとするならば、龍馬とおりょうはもっと早くから出会っていて、そして付き合っていた事になりましょう。その辺りの真偽は不明なのです・・・。
こちらは折れた枝から、チェーンソーアーティストが創り出した「龍」だそうです。
エノキの気には『龍』の文字は見つけられませんが、こちらの龍はそんな龍馬とおりょうのエピソードに彩りを与えているように感じました
そうした龍馬エピソードから、「龍馬おみくじ」の展開
せっかくだから・・・。やるぜよ・・笑
「吉」ぜよ!笑
私は、こうしたものを収集するタイプではないのですが・・・
買ったぜよ・・・笑
別段、男女の縁に限ったものではなく、人と人との良き御縁がありますように、というお守りだそうです!
三条会商店街のアーケードには、武信さんを案内するこんな看板も掲げられていました。不法投棄は、いかんぜよ。