うめじろうのええじゃないか!

幕末巡りと食べ歩き、時々うめじ論

平田篤胤の墓@秋田市2017

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私事、転々とする身なのですが、移転先が決まるとまずマップを開いて(最近ならもっぱらスマホでグーグルマップ)その土地を確認することから始めます。数年前、茨城県に移転した際にも、やはりマップを開いてみると、まっ先に目に飛び込んできたのは「間宮林蔵の墓」でした(苦笑)。自然、転居後の休日にまっ先に訪れたのは言うまでも無く、「間宮林蔵記念館」「ワープステーション江戸」でした。
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そして2017年3月、今度は秋田に移住が決まると、同じくマップを検索し、まず目に飛び込んできたのが「平田篤胤の墓」でした(笑)。おおよそ一般的にはまず感心を示すことのない、そんな場所だと自分でも苦笑を禁じ得ませんが・・。
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秋田市秋田大学の背中側に位置する小高い藪を登ってゆくと、「平田篤胤の墓」はありました。
平田篤胤ー。私的観点からは国学者神道家の「矢野玄道」が入門した「平田国学」その人であり、矢野玄道の影響を受けた佐賀藩士の「枝吉神陽」、弟の「副島種臣」らに「つながる」人物として、幕末人に影響を及ぼした思想家として、幕末目線からすると、少し雲の上に霞む存在として興味の対象となっていました。しかしながら、僭越ながら度々触れているように、私的幕末は「ロシア船の出没」「蝦夷地」から始まっており、高田屋嘉兵衛も含めて、私にとっては平田篤胤も「幕末」なのであります。
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平田篤胤は安永5年(1778)に秋田城下に生まれました。寛政7年(1795)に脱藩し、夢の中で本居宣長と対面し入門を許可された、としてその場面を「夢中対面図」(享和3年)という絵に描かせています。
少し逸れますが、本居宣長の「古事記伝」は、古事記の注釈書というもののようですが、「失われた日本の古代の姿を明らかにし、ここに描かれた神々の物語はまったくの真実」という主張をしているところが注目されます。なるほど、いわゆる表向きの政治的なものとは対照的な、「内向き」なる歴史の本質があると言わんとしているのでしょうか。それに傾倒する篤胤。
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さらに篤胤は文化2年(1805)「鬼神新論」にて、古事記という神話、祝詞風土記や伝承等、日本だけが唯一正しい伝えが残されている、とし、異国の思想や宗教は日本のように正しい伝承が伝わっていない状態での解釈であって、勝手に作られたフィクションが多分に混ざっている、と主張します。こうした主張から、狂信的国粋主義者としてとらわれたのではないでしょうか。
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また、幕末において重要なキーワードである「朱子学」ですが、篤胤はこれを否定しています。儒教的「鬼神」の捉え方で最も間違っているものが「朱子学」である、とし、このような朱子学的合理主義は愚かな知ったかぶりに過ぎないと主張。その対照的学問として「徂徠学」、荻生徂徠らの古学を褒めています。徂徠学と言えば庄内藩校のスタイルですね。しかしながら、それでもまだ、鬼神については朱子学の唱える域を脱し切れていない!と批判するのです。すこしややこしいですが、「鬼神新論」はつまるところ、儒教の祖である孔子が敬う人格神は、世界を創造した日本神話の神である、と言っているのですね。
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その後、篤胤は主著となる「霊能真正」(たまのみはしら)を著わします。時代はフランス革命やら北方に迫り来るロシアなど、異国の存在のリアリティが高まる中であり、こうした事象が、日本のアイデンティティのありどころを探ろうとするひとつの要因になっていたのではないでしょうか。
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私が平田篤胤に注目したい点はもうひとつあり、「千島白波」という編纂物です。これは秘密裏に迫り来るロシア危機のおける様々な情報を収集していたものらしく、記録をしたものでした。さらに「蝦夷諸島一覧略図」や「択捉島図」、ロシア文字練習帳やロシア語の記された冊子類なども平田家から発見されているらしく、非常に興味がそそられます。最上徳内近藤重蔵にまで直接問いただしながら詳細な蝦夷地図を作製するなど、ここにも繋がりがあったのか!という思いです。ちなみに「千島白波」の編纂が終了するのが文化10年(1813)。この年は高田屋嘉兵衛が抑留されていたロシアから帰国し、「ゴローニン事件」が解決した年でした。


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