2021年3月、広隆寺を訪れた記録です
聖徳太子にまつわる寺院ということで、当初聖徳太子を勉強してからUPしようとしていたのですが・・とんでもありません・・私ごときがたかだか一年そこらで聖徳太子を理解しようなんぞ出来るはずもありませんでした・・^^;
結局、読めば読むほど聖徳太子が解らなくなり・・・これは生涯かけても理解に及ばないかも知れない・・と降参し、記録としてUPすることにいたしました・・^^;
楼門の仁王像が、ここでもすごい睨みをきかせています・・・。
もうほんと・・・どこに行っても歴史遺産がハンパ無いです・・・。
毎回の事ながら、圧倒されますね・・・。どんだけえ~~!笑
楼門をくぐると上宮王院太子殿へ続く石畳が敷かれていました。
右にカーブしています・・。不思議な造りですね・・・。
昨今流行りのアレの影響か・・・私以外に1~2組の参拝客しかいませんでした・・・。
歩を進め、上宮王院太子殿が正面に見えてきました
広隆寺のパンフによると、
広隆寺は推古天皇11年(603)に建立された山城最古の寺院であり、聖徳太子建立の日本七大寺のひとつである。
この寺の名称は、古くは蜂岡寺、秦公寺、太秦寺などと呼ばれたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている。日本書紀によると秦河勝が聖徳太子から仏像を賜わりそれをご本尊として建立したとあり、そのご本尊が現存する弥勒菩薩であることが廣隆寺資材交替実録帳を見ると明らかである。
秦氏族が大勢で日本に渡来したのは日本書紀によると第15第応神天皇16年で、主は養蚕機織りの業であり、その他に大陸や半島の先進文化を我が国に輸入することにも務め農耕、醸酒等、当時の地方産業発達に貢献していた。
でた・・!秦氏・・・!
もう、のっけから私の大好きな歴史探訪妄想ワールドに没入しちゃう感じなのですが・・・秦氏といったら縄文末期に渡来した古イスラエル十氏族のひとつ(アマベ・モノノベ・秦氏)ですよね・・・!
丹後半島に上陸した海部(アマベ)が太陽神ホアカリを祀る神社を天橋立に「籠神社」を建立し、稲作水田を各地で開発。この稲作集落における太陽神と、豊穣を祀る宮、これを「イセ」と読んだワケですよね・・。
そして大阪湾に上陸した物部(モノノベ)は男神である祖神「ニギハヤヒ」を石切神社に祀り、奈良の盆地に入ってゆく。
さらに遅れて列島に渡来した秦氏は、商業民の面を持っていたとされ上にもあるように、養蚕機織・製糸・紡績の職能を有し、積極的に大陸文明を導入し産業振興を図っていったワケですよね・・。
秦氏が「大勢で」渡来したのは応神天皇時と説明にありましたが、私の認識では秦氏は崇神天皇の頃から渡来していて、応神が「大勢の」秦氏を率いて半島から「やって来た」というのが私の認識です・・。お解りいただけますでしょうか・・?応神が「やって来る」為には、その前に「行って」なきゃいけないワケです・・・。
つまり応神の時に「大勢」がやって来た訳で、その前に秦氏は既に列島に入っていた、というのが私の認識なのであります・・。面白いですねー!(私だけか・・笑)
そして応神の治世を契機に始まる古墳の「巨大化」。
つまり騎馬民族の古墳文明というものの隆盛がピークに達した、という事ではないでしょうか・・。そして、応神王朝は終わりを迎える・・・。
その後継体王朝が出来、672年の壬申の乱へと続いてゆく・・。
この壬申の乱後がまた面白いのですが、更に妄想歴史ワールドの深みにいきますよー!笑
中大兄皇子(天智天皇)から大友皇子(弘文天皇)に皇位継承の後、大海人皇子がこれを破り天武天皇となります。伊勢大神宮を創建し、古事記の編纂を開始。
元々、ヤマト皇統とは海洋民族なんですよね・・?
そこに、大陸騎馬民族を取り込む「カタチ」をとった。「カタチ」というのは、その裏に存在する本来の在り方は変えず、表面上(政体として)騎馬民族化した。なぜならばやがてやって来る大陸からの騎馬民族の襲来が予見されていたから。
それを見越して騎馬民族化することにより、お前達と「同族」だ、とする事で襲撃を避け国を護る。しかしその裏にはこの国の始まり以来変わらぬ「体」がしかと存在していた・・!
イセの神宮を創建した大海人皇子。壬申の乱で大海人皇子が皇位に就いたということは、崇神王朝から騎馬民族化した王朝を再び海洋民族に戻した、ということではないでしょうか・・・。
そしてその天武天皇が編纂を開始させたという「古事記」とは、騎馬化した表面上の歴史ではなく、裏で護り続けてきた海洋民族の「正史」を編纂させた書物ではないか、と考えるのです・・・。
もうね・・そんな妄想歴史探訪ワールドを頭に巡らせながら広隆寺を見学してると、チビりそうになるくらいの緊張感でトイレに行きたくなるんですけれども^^;・・・
いや~・・・妄想が尽きません・・・。
しかし・・冒頭でも触れましたけれども、時期や流行のアレもあってのことでしょうが・・全然参拝客というか、人がいないんですよ・・・。
このような歴史上な「巨人」のひとつである京都のお寺なのに・・何故こんなにも見学客がいないのか・・が非常に不思議でしてね・・・
そうした雰囲気がまた・・・ヤバい歴史探訪の緊張感に拍車をかけるような思いになるワケです・・・^^;
そして広隆寺と言えばコレ!ですよね・・!
@!!
「一切衆生をいかにして救おうかと考えているお姿」として有名な像ですよね・・・!
こちらの霊宝殿にいらっしゃいます!
すわっ・・・!!
た・・魂が・・・吸い取られるが如く・・・ハンパ無きオーラ・・・・(゜_゜)!
他に見学者がほぼいないので、じっくり見入ってしまいました・・・。
あまりのオーラにその場から動けなくなるような思いで・・・チロチロと角度を変え、思いを巡らし・・・・ずうう~~と眺めていたせいか・・・
背後に感じる警備員の警戒感の視線がハンパ無かったです・・・・^^;
いや~・・・・・しかし・・・・。
贅沢ですね・・・こうしたモノホンを貸し切り状態で拝見出来るなんて・・・。
霊宝殿はもちろん撮影禁止。当然、弥勒菩薩半跏思惟像の撮影も出来ませんが、今回特別なルートからスペシャルな画をご用意いたしました・・!
「俺の弥勒菩薩半跏思惟像」笑。
奈良でガチャガチャやったんです・・^^;
和の心「仏像コレクション」!300円。
アシュラちゃんを求めでガチャガチャしたら・・・
弥勒菩薩半跏思惟像が出ました^^;!(スペシャルな金色が欲しかった・・!笑)
これがまた・・・意外にリアルでして・・・。
気に入りました・・!笑
と、いうことで、広隆寺を訪れた記録でした。
「蚕ノ社」は次回の宿題といたしました。
@京都2021