


その大手橋を渡ると正面に見えるのが徳川斉昭によって創設された弘道館です。天保10年(1839)に城内三の丸に学校の敷地が決まり翌年から建設工事が開始されたといいますが、龍馬が4,5歳の頃の話です。私の歴史年表は全て龍馬が基準になっているので、そう考えると余計にへえ~・・が深まるのです(苦笑)。

ご存じ、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公。幕末というと大概、嘉永6年の浦賀沖にペリー率いる黒船艦隊がドーン、という所から話が始まる訳ですが、この時に老中主座阿部正弘が烈公に意見を聞きに行くんですよね。御三家で攘夷派の巨頭、水戸斉昭を海防参与に任命し幕政に関与させるのですが、これがこれまでの「御三家は幕政に関与出来ない」という慣例を破ったカタチになり非常に大きな動きのひとつであったわけです。

慶喜公もこの橋を渡って通われていたのでしょうか。お土産やさんのおばちゃんに聞くところ、幼き頃この橋を石を蹴り蹴り渡って通われたんだそうです。

梅雨の雨滴る弘道館。何故か?この日は私以外見学者がいません。もしかしたら震災復旧工事で3年ほど閉鎖されていた為、再開している事がいまひとつ知られていないのかも?と思いましたがどうでしょうか。私としてはおかげ様で?静かにゆっくりと見学させていただきました。

これです。まさに、幕末のひとつの大きなキーワード。尊王攘夷。当時の若者にとっては一種の呪文のような言葉であったのかも知れません。幕末ファンには身震いを禁じえない言葉。見学者が私以外誰もいなかったこともあって、この薄暗い部屋の前で私はどれくらいの時間居たでしょうか、ここに居るだけで幕末そのものの一連の流れが脳裏に浮かび流れていくようで、なんとも言えない不思議な感覚になりました。正直、ちょっと気が入り過ぎたようでこの日は帰路から頭痛になり体調不良に・・・。幕末ファンにはちょっと濃過ぎる場所だったかも知れません・・・。

現在史跡としてこうして見学出来る範囲はその一部であり、当時はこの周囲にもっと広大な規模であったそうです。この縁側から左側には現水戸市立三の丸小学校があるとみえ、勉学に励む子供たちの元気な声が聞こえてきました。萩の明倫館を訪れた時もそうでしたが、改めてすごい歴史の中で勉強しているんだなあ・・と思います。